DSCF0022(11月19日、CINQにて)

 11月19日(土)の夕方からいつものBarサンクにテニスの仲間が集まりました。
遠くは愛知県からの30 代夫妻(元学生コーチ)を含め年代さまざまの12名。
(思い出の主がいつも座っていたカウンター席の周辺はこれで満席)
 30年以上前に今の東京青年会議所テニスクラブを立ち上げて、ずっと会の
中心だった和田章宏さんが2010年12月12日に亡くなって早くも1年近く。63歳
でした。彼はサンクが好きで皆でよく飲みに行った由縁から、2月に「お別れ会」
を開いたこの店で飲みながら思い出を語り合いましょうということに・・・。

 信州生まれの私からすると、あの時代にこんな学生時代を送った人がいた
のか、かくも格好良い生き様ができるのかと思えるようにダンディな人でした。
 小中学校は青山学院で、日吉の慶応高校から経済学部へ。(のち稼業の
文具メーカー3代目社長に)
 戦後間もない時代にご幼少の頃から私学・・。信州にいて高校生になっても
東京に私立の小中学校があるなんて全然知りませんでした(苦笑)。
 更にナニナニ高校生から車を運転して通学ですって?!信州では自転車が
せいぜいでしたよー。まるで石原裕次郎か加山雄三に近い世界ですよねー。

 お坊ちゃまOB,お嬢ちゃまOGが多い慶応でも、和田さんはぴか一のダンディ
だったという話で盛り上がりました。立居振舞、ファッションセンスも一流でしたが
お酒の飲み方のスマートさは抜群でしたね。女性(ホステス)のいる店は好まず、
和洋酒の知識を豊富に持ち、連れの話を楽しそうに耳を傾ける聞き上手・・・。

 肺がんの宣告とオペから1年半。転移の診断で覚悟をしていたらしく、しかも
最期をBarかテニスコートで迎えようと望んでいたようで、亡くなる3ケ月前まで
(去年の猛暑の中を8月末まで)毎週日曜の朝は長身をフラつかせながらコート
にやってきました。仲間の歯科医が主治医になり皆で支えながらのテニス・・。
そして、その後は永年変わらずのビールランチを賑やかに。(更に二次会も) 

 私たちの前に姿を見せたのは拙宅で開いた9月末の宴会が最後でしたが何と、
亡くなる2週間前の11月末にもBarに現れたと、バーテンさんから聞いています。
 
 どうせ生命に終わりがくるのであれば、病院のベッドに点滴付きで縛られること
なく当日まで自由人でいたい・・とご本人から聞いていましたが、私も似た状況に
置かれたら同じようにしたいものです。うーん、女も格好よく終わりたい。