
婦人画報
8月号より
絵本画家・いわさきちひろが1971年に描いた「赤い帽子の男の子」。
55年の生涯で約1万点の原画を残した中の代表作ですね。
<映画「いわさきちひろ~27歳の旅立ち~」>
7月22日に有楽町イトシアにある映画館で、ドキュメンタリー映画
「いわさきちひろ~27歳の旅立ち~」を観ました。
あのほんわかして可愛い童画を描くイメージからは想像できないちひろ
(知弘)の挫折や心の傷、そして絵にかけた生涯を描いたものです。

1973年のいわさきちひろ
亡くなる1年前(54歳)
婦人画報 8月号より
1918年、陸軍の建築技師を父に、女学校教師を母に、当時としては
かなり裕福な家庭に生まれる。(母の単身赴任先・福井県で出生)
府立第六高女(現在の都立三田高校)卒業後、美大への進学をめざすも
両親が猛反対。20歳で強いられた結婚をし大連に渡るが、2年後夫が自殺
して帰国。戦争で東京の自宅から焼け出され、松本にある母の実家に疎開。
のち両親は戦争に加担したと公職追放される。ちひろは日本共産党に入党。
絵を描きたくて1946年、27歳で家出同然に松本から焼け野原の東京へ。
いわさきちひろの童画には「お願い、この子たちだけは傷つけないで・・・」
という平和への深い願いがあるとのナレーションに頷きました。
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<ちひろの母、岩崎文江さんの思い出>
映画の前半で登場する両親・・・特に母親の長女・ちひろに対する厳しさは
時代の背景があったとはいえ、まったく想像を超えるものでした。
母親の岩崎文江さん、1890年松本生まれ。旧制松本高等女学校を卒業後、
奈良女子高等師範(現在の奈良女子大学)の第一期生に入学し、女学校の
教師として単身赴任をしていたようなとび抜けたエリート女性です。
私は17歳で『晩年の岩崎文江さん』に前代未聞のお願いをしました。
(こう申し上げると、えっ! あなた何歳なの?と驚かれそうですが,こちらは
10代で、お相手は晩年ですよ~・笑い)
だから、この映画をちひろ物語としてだけではなく、文江さんの人生と重ねて
観ていたのです・・・。
映画のスチール写真で見る若いころの文江さんは美人で、(戦前から)つば
の広い帽子を斜めに被るモダンガール。私がお会いした文江さんとはまるで
別人に見えましたが、やがてはちひろさんの50代によく似ていましたね~

晩年の岩崎文江さん
(同窓会長の頃)
岩崎文江さんが卒業した旧制松本高女はのち長野県立松本蟻ケ崎高校※
(後述)となったのですが、ここは私が在学した女子高なんですよ~。
当時の同窓会長が岩崎文江さんで、脳血栓で倒れ83歳で亡くなる直前まで
17年間在任しておいででした。
私は高校3年生ー17歳の夏、4人の同級生と共に、学校の敷地内にある
同窓会館に岩崎文江さんを訪ねて行きました。
その当時、文江さんは確か会館の脇に一人住まいのおばあちゃまでした。
私は多分こんなことを申し上げたのではないかな~
「岩崎先生、この夏休みに会館に泊まり込みをさせてください!」
「これからは女性も社会に出て、人の役に立つ仕事をする時代だと思います。
だから受験勉強をして学力をつけ大学に進学したいのですが、お互いに
教えあい競争するには、みな自宅が遠く電車通学なものですから・・・」
今となればウーン、恐るべし、驚くべしの陳情ですね~(笑い)
文江さんは最初鳩が豆鉄砲を食らったような表情をされていたかなあ。
この突拍子もない申し出に、文江さんはしばらく考え込まれたのち、
「分かりました! 皆さんの熱意を買いましょう! その代りひたすら勉強する
のですよ。厨房(同窓会・料理教室の設備)も気を付けてお使いなさい。
学校には私の方から説明をしておきます。何か困ったことがあれば、すぐに
私に言ってらっしゃいね」・・・と孫に接するような優しいまなざしでした。
そして時折様子を見て下さり、差し入れも頂戴したような記憶があります。
こうして10日間以上泊まり込み、毎日朝から晩まで15時間くらい勉強をした
ように思うし、合宿後も自宅でイケイケドンドンのねじり鉢巻き。
休み明けの試験では(1学年400名中)全員が10番以内に入る成績を残し
たような記憶があります・・・。 もう忘却の彼方の話ですけどね。
(あの時、ねじり鉢巻きをした割には、今はこんなもんですよ~ ・笑い)
今の時代に置き換えると、高校生が学校の校舎内は勿論のこと、別の
責任下にある同窓会館に何日も泊まり込むなど、考えられないですよね。
「何か起きたらどうする」がすべての価値基準で、事故の可能性だけで
マイナス、マイナスで差し引き、誰も責任負いたくないが殆どですから・・・。
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<岩崎文江さんから, ご褒美はちひろの童画>
今日で合宿を終えて帰りますと、文江さんにお礼のご挨拶に伺った時、
「よく頑張りましたね~」と言いながら、私たち一人一人に、はがきサイズで
子どもを描いた絵を下さいました。笑顔の文江さんを今も思い出します。
「私の娘はね、ちひろというのですが、こんな絵を描いているのですよ。
記念に差し上げますから、どこかに飾っておいてくださいね」・・・・と。
今思えば40代半ばで絵本画家としてバリバリになり始めた頃のちひろさん
が描いた淡い色彩のスケッチ原画でした。あの貴重な絵はどこにしまったの
だろう・・・。 ずっと探しているのだけど、まだ見つかりません(苦笑)。
娘の進学希望をトンデモナイと反対して断念させ、あげくは見合いを強要
して結婚させ、結局は愛情が通わないまま夫が自殺し、ちひろは傷心して
帰国。更に戦時の女子義勇隊としてボロボロのちひろを満州に送り込む。
こんな鬼みたいな母だった文江さんだけど、彼女にも深い傷になって残り、
きっと長い間苦しんだことでしょうね。
だから、亡くなる直前まで女性たちのサポートに専念し、私みたいに跳ねて
トンデル女の子が若い頃のちひろさんとダブって見えたかもしれません。
「熱意を買いましょう」と言った文江さんの心情を思い映画館で涙が溢れました。
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※松本蟻ケ崎高等学校
1901年(明治34年) 松本高等女学校として開校
松本高女の時代には、明治の歌人・土屋文明が校長に着任したこともあり、
岩崎文江が女学生として学んだのは明治の終りだった。
大正時代には、清朝の王女で男装の麗人といわれた川島芳子(愛新覚羅 顕㺭)
が義父の自宅・浅間温泉から馬で通学していた。

松本高女に通学
した 川島芳子
戦後は電電公社初の女性管理職となって、日本有職者婦人クラブ会長
を務めた影山裕子が在学し、
近年ではパフォーマンス学の第一人者・佐藤綾子も卒業生。
また最近話題となった、フランスのルイ・ヴィトンが、新たなデザインとして
取り入れた前衛芸術家 草間彌生も大先輩だが現役で活躍している。
一方、私が在学した頃迄は女子高として長野県のトップレベルだったが、
1975年に男女共学となってからは、学校群制度の導入と重なり、
「自由と責任」を重んじた個性的な女子教育の場※ が失われて
看板は同じでも 別の学校になった感がある。
※講堂正面に『自由』と掲げられ、校則は皆無で、制服もなかった。

前衛芸術家
の草間彌生
