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プリンスホテル
さくらタワーの
七軒茶屋にて









<呑兵衛1.マガジンハウスの木滑良久さん>

 平成7年(1995年)頃に雑誌「RELAX」の商標を借りたいと
マガジンハウスから話をいただき、直々に訪問くださった人が
当時の社長 木滑良久(きなめりよしひさ)さんでした。
( 「relax」は1996年に創刊され、 10年後の2006年に休刊)

 社名が平凡出版だった頃に「平凡パンチ」を誕生させた編集長と
して鮮烈なデビューをして以来、アンアン、ブルータス、ポパイ、
HANAKOなどを生み出した敏腕プロデューサーで、のち、社長、
会長となられ、82歳の今も取締役最高顧問としてご健在です。
日本雑誌協会の会長にも着任されていましたね。

 木滑さんは当時60代ですが、サスガに遊び心満載の大物!!
感性が若者並みに瑞々しく、話題がお洒落で最先端で、楽しい会食
をしばしばご一緒したのですが、何よりもお酒が豪快でしたね~

 お馴染みの料亭に同行するとお料理と共に日本酒が出されるの
ですが、最初の一杯はともあれ、お猪口(ちょこ)でさしつ、さされつ
というお互い面倒な酌み交わしはありませんでしたね~
 お席もL(エル)字とか、コ(こ)の字に配置されて、マイペースで
お酒をいただくための独立性がセットされるといいますか・・・(笑い)。

 誰かのお銚子が空くと、良いタイミングでお姐さんが入ってきて、
各人にお銚子が2本くらいづつポンポンと「配達」されます。この場合
は勿論小さいお猪口ではありません。相当な大きさのぐい飲み。

 「いゃー、もうこの位で」なんて躊躇してこのペースに追い付けない人
は天下の名編集長・木滑さんから数々の話題を聞ける最高の酒席は
ご遠慮くださいということでしょうか(笑い)。
そして宴会が終了になろうが、あまり酔っていないのですよ(オオっ!) 
そればかりか、木滑社長を含めて編集幹部の皆さまは仕事に戻って
行くことも度々だったかもしれません・・・。
「酒は飲んでも飲まれちゃならぬ」の別世界でしたね~(笑い)。 

※マガジンハウスはかって、社内で一杯飲みながら仕事をすること
 OKや、麻雀をしたり、昼寝をしたり、家に帰らず連泊も自由など、
 遊び感覚と仕事をクロスさせ、人気no1の雑誌を次々と創りだして
 きたようですよ~。(今はもう許されないらしいですが・・・)

 近年就職人気と競争率が高まったので、労組の要求もあり、採用
 試験にペーパーテストを重視した結果、東大出が増えて・・、中身が
 面白くなくなり、雑誌の売れ行きが鈍ったという話を小耳にはさんだ
 ことがあります。こういう話、至る所にありませんか?(苦笑)


<呑兵衛2.テニス仲間の和田章宏さん>

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 東京青年会議所テニスクラブの仲間で、若いころから皆で和田さん
をリーダーに、30年一緒にテニスや宴会を楽しみ、日曜練習会の運営
はスター(和田さん)と雑用係(私)の二人三脚でしたね~
 当blogの「三田もBarにいる」のBarサンクは元々和田さんに連れて
行かれた店で、テニス仲間でよく出入りし、そのうち私一人でもフラッと
立ち寄るようになったのですよ~

 慶応高校から経済学部へと進み、超お坊ちゃまが多い義塾の中でも、
ぴか一のダンディだったと今も伝説になっている人です。
 ワインやウイスキーなどお酒の知識がダントツで、その場の雰囲気や
同行者の好みにあわせて、選択とオーダーができ、三次会や四次会に
ならない限り、酔った姿を見せない点で上品で綺麗なお酒でしたね~
(元気だった頃は週に5日6日は飲み歩いていたのでは・・・?)

 2010年12月に惜しくも逝去されましたが、最期の舞台をテニスコートか
馴染みのBarでと望んでいたらしく、亡くなる3ケ月前まで真夏のテニス
コートに現れ、2週間前には病院からBarに現れたという武勇伝も。
 だから、東京青年会議所テニスクラブが主催したお別れの会は「三田も
Barに」のサンクで開いて、遺影の背景には100本を超えるボトルの棚・・・。

 更にそこに参加できなかった知人・友人たちに声をかけて、私の自宅
でも和田さん好みの『お別れ宴会』を開いたら、海外や遠方から老若男女
を問わず40名が駆けつけてくれて、祭壇はお酒が山盛りに。
 その上、和田さんが好んで出入りした銀座界隈の店のバーテンさんたち
が集まりお別れの会が開かれたそうで、呑兵衛冥利につきますよね~


<呑兵衛3.ある装丁職人の壺と茶碗で>


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うちで宴会に
使う日本酒の
道具類です。












 いつでしたか、今から20年ほど前になりますが、単行本の装丁をお願いしに、
2,3名である専門職人さんの店(兼住まい)を訪ねて行きました。
装丁済みの本がたくさん並べられており、かなりのセンスを感じたものです。

 打ち合わせが終わると『よろしければ一杯飲んでいきませんか』とお誘いを
受け、テーブルの上に、大きな壺と日本酒の一升瓶と、ご飯茶碗が並べられて・・・
「えっ?」と思いきや、目の前でこの壺の中に一升瓶がドドドド~っと。

 そして、彼は味噌汁の柄杓で壺のお酒をご飯茶碗に入れて 「ハイどうぞ!」
「あとはご自由にお好きなだけ」   「おおっ!」ですよ~ (笑い)
いろんな方々と大酒を飲んできましたが、後にも先にもこれ程の大きな道具は
経験できず、でもこの豪快さがすっかり気に入って、あれから自宅の宴会でも
写真のようにセットします。初回の皆さんはひきますが・・・(笑い)。

 実は装丁職人さんの大きな壺には話の続きがあり・・・。「この壺は大きさも
焼きも良いですねぇ。どちらの焼き物ですか?」とお尋ねしたら、
これ、自分の骨壺として僕が焼いたものですよ~」 (オオっ、素晴らしい!!)


<呑兵衛4.裕次郎はNHKでもグラス片手>

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 石原裕次郎が酒豪だったことはあまりに有名な話ですが、日活の青春
スターとして、裕ちゃんと飲み歩いた浜田光夫さんから直接伺った話ですと、
彼らは若くて元気な時代には、毎晩ウイスキーであれば一人でボトルを
2本空けるくらいの量を飲んでいたそうです・・・。

これも浜田さんからの話ですが、
 裕次郎のお酒はどこでも特別扱いだったそうですよ~ 映画や歌の収録
があると、事前に瓶ビールならダースで撮影所やテレビ局のスタジオに運び
込まれたとか。(1ダースの話ではないようですよ・・・)
 ある日、NHKでの収録が予定されているのに、裕次郎やスタッフが現れ
ない。どこに行ったのかと探したら、多摩川でBBQをしていることが分かり、
NHKは多摩川までヘリコプターを飛ばして飲んでいる裕次郎を迎えたそう
です。
 NHKがグラス片手に収録を許したのは唯一、裕次郎だけだったという
のは大物スター故のスペシャルなんでしょうね。

 こんな豪傑はもう見当たらないし、社会が例外を許さない傾向ですよね。
一律平等主義で人を選ぶこともなくルールを適用し、お利口を求めるから、
エリートが育たず、優れた素材でもドンドン小ぶりになってきている・・・。
人はみんな金太郎飴ばかりで、戻る答えもオウム返し。
日本の将来を考えると、どうなのかなぁとお思いになりませんか?