DSCF0163 北朝鮮は12月17日、金正日総書記
の逝去と三男正恩氏へのバトン移管
により新たな不安と期待とで、世界を
にぎわしていますねー。

 今から13年前になりますが、NGO
グローバル レインボーシップのメンバ
ーとして98年4月30日から1週間、
平壌に滞在し、子供たちにお米、ミル
ク、文房具スポーツ用品等を配布する
ことで、幼児施設や学校を中心に様々
な関係者と交流してきました。



(五味武さんを団長に、難民救済に熱心な俳優の藤岡弘さん、ロック歌手の
ジョー山中さん、歌手の喜納昌吉さんも一緒に14名で訪朝)

 当時はまだ拉致問題が表面化する前でしたが、名古屋空港の隅に降り立った
高麗航空の飛行機を見た時、無事帰国できるかなという恐怖を感じたことを今で
も覚えています・・・。それでも平壌に着くと政府関係者は手厚く出迎えてくれたし、
市内の中心にある高麗ホテル(小泉総理の訪朝時滞在し、横田めぐみさんの娘
 キムヘギョンさんなどがインタビューに応じたホテル)で、不自由なく過ごせたた
め不安感は払拭されましたが・・・。

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 平壌は北朝鮮というイメージとは別に美しい街でした。
緑が豊かでゴミ一つ落ちていないし、国民は相当な
制約を受けているせいかグレテイル者はいない・・。
 街中を走る車はVIPしか乗らないらしく、交通量は少な
くベンツが圧倒的。交通事故はめったにない筈ですが
 
 また、地下鉄が便利でしたが駅構内はシャンデリアや
壁画で飾られ、聞けばロシア流の装飾とか。首都は
表の顔なので、相当予算をかけて選ばれた人が住んで
いる印象を受けました。きっと地方には外国人に見せたくない貧しい層がいて、今も食料難にあえいでいるのでしょうが、少なくとも我々は案内してもらえませんでした。



 

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 平壌市内で朝の通勤風景。
 共働きが普通で女性も外勤。 
 大人は全員が左胸に金日成
 バッチをつけている。(身分や
 階層により種類が異なる)
 
 ダメ元で政府関係者にバッチ
 をいただけないかと申し出たが、
 一笑に付されました(苦笑)。








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 平壌から2時間くらい高速道路で走り郊外に
出てみると別の風景が広がっている。
日本の農山村に似てあまり人の影は見当たら
ないが、日本人の思惑とは別に人々の暮らし
が確かに営まれていることを感じました。
 他方、地方に行くと小高い山の頂上には、
韓国に向けたトーチカ(大砲台)が多数あり、
ああ、朝鮮半島は休戦状態とはいえ戦争が
終わっていないのだと・・・。









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どこの国に行こうが、その国の将軍さまが拉致を指示したことへの
嫌悪感があろうが、子どもたちの笑顔は文句なく可愛いですね。
 10ヶ所以上の学童施設に食料や文具、遊具類を贈呈したのですが、
いつも子供たちが遊戯や歌で感謝を表してくれました。
子どもはいつでも希望の星・・。今も元気でいてくれますように。



DSCF0172 平壌市内の中学校を訪問して、主に運動具などを
贈り子供たちを励ました。北朝鮮の義務教育は17歳までの11年で日本より長く、すべて無料。
 生徒も選ばれているのであろうし、少年宮で英才
教育を受けているのか、歓迎の演奏会ではセミプロ
級の美少女たちが登場して、バンドの伴奏で歌や踊りを披露してくれた。その昔(日中国交回復後に)
中国で見たと同じカルチャーを感じたものです。




 
              




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 歓迎会の返礼は主にこのお三方が。ジョー山中さんはロック調で「赤とんぼ」を、
喜納昌吉さんはいつも「花」を歌いました。藤岡弘さんは中学などでは武芸を披露。
藤岡さんが二次会のカラオケで歌う「夜霧よ今夜もありがとう」や「昴」は絶品でした
が公の場ではプロの歌手二人に遠慮がち。
HANAは朝鮮語で「一つ」の意味と喜納さんから聞きました。彼は半島統一を
 願って歌っていたようで、「すべての武器を楽器に」と何度も口にしていました。

(惜しくもジョーさんは今年逝去されました。南米やフィリピンなど、ボランティアを
 何度もご一緒しましたが、いつも本気の繊細な人でした。楽しい歌をありがとう!
 ご冥福をお祈りします)


<今だから語れる北朝鮮での裏話>

 訪朝した時に撮影したビデオは、政府が撮ってくれたもの、ジョー山中さんが
帰国後編集して分けてくださったもの、個人的に映したものなど、3本手元に
残りましたが、当時の珍しい映像をメディアに提供する気にはなれませんでした。
テレビや映画を活動の舞台とする俳優の藤岡さんや、ジョーさん、喜納さんなど
も同じ感覚だったのではという気がします。(今はもう北のいろいろな映像が日
常化しているので恐れは消えましたが・・・)

 私たちの1週間の滞在中北朝鮮の外務省側からずっとアテンドしてくれた政府
関係者がいました。唯一名刺をいただいた外交官ですが、表向きにはガイド
さん的な役割が中心で、流ちょうな日本語を話すジェントルマン(当時40代前半)。
 ある種の監視役もかねていたのでしょうから、二次会でのカラオケも一緒で、
デュエットもしたし、思い思いに歌った時あまりに上手なので、日本に留学をした
経験などを質問したら、東京には数回出張で行き来しているとのことでした。
(中央図書館を訪問した際も、日本と較べ数倍情報収集をしていると実感)

 で、私たちが帰国する前夜、サーカスを見てから食事をし、感謝を伝えている
時に、一瞬彼の眼から涙が流れました。えっ、その涙の意味は・・・?
 私には「皆さんが帰国する日本は自由でいいなー、北朝鮮もいつかは改革開放
をして国民がもっと明るく暮らせるようにしたい。羨ましいな、明日から又辛いよな」
・・・様々な会話で人柄も感じ、表情からもそれしか理由は見当たりませんでした。

 だから、彼の涙は今も北朝鮮に向けた私の「一縷の希望」です。

(後日談ですが、帰国後数年を経て彼が日本と北朝鮮の国交正常化大使に
なったことをTVで知りました。現在の役職は不明ですが、この機に又両国の橋渡し
役となり、拉致被害者の解決に率先尽力してほしいと心から願っています)

<NGO活動の舞台裏では>

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 NGOで訪朝し、施設や学校に物資を配布した舞台裏は毎晩
遅くまで仕分けや荷造りに追われました。
そんな時、一番頼りになったのは藤岡弘さん。武闘家であり、
身体も大きく、しかもアクションスターの出だから、作業が早くて
いつも中心になって力仕事をしてくれました。時折テレビで見る
活躍は嬉しいですよー。