10月の下旬に私がお役目上、司令塔と事務局(企画・進行・人集めなど)を
してきたやや大きめのイベントがあったため、18日頃からblogを放り出して
おりました。
 この間に、新しい話題があるかなと当blogを開けてくださいました皆さまには
スミマセンでした!!  また続けますので、どうぞよろしく~

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10月25日の
朝日新聞から







 「男女の平等」が日本は世界135国中、101位?!

 この記事、大半の日本人女性は首を傾げるかもしれませんね・・・。
現実には妻が財布を握っている家庭が多いし、実力の割には持ち上
げられ、その気になっている女性が目につくし、更に最近は男をだまし
て財産を奪うようなおっかない女性も増えているからね~(苦笑)
「女性の幸福度」を計測すると、日本の女性は相当高い位置にいる筈と
語る友人がいて、それはなる程ね~と思いましたよ。

 この女性の地位というのは、役所や企業における幹部数の割合や、
女性議員の割合などから算出された社会的な進出度ということですね。
 この記事について、28日(日)にいつものようにテニスを終えた後、
仲間の弁護士(60代前半)とランチをしながら議論で盛り上がりました。

 彼は女性の立場に立ち、「馬鹿な男が多い日本の社会で、能力を発揮
できない子育て後の女性がそのまま人生を終えるのは勿体ない」と発言。
 私もその一面は理解しつつも、でも自分の来し方を思い起すと、
単純に「その通りです、制度が足りない」とは言い切れないものがある・・・。

 まあ、私が何十年前から仕事をしていたかは別にして、東京都庁で同僚
のおじさんたちに、意地悪をされた記憶はあまりないですね~
 確かに男と対等に認められるためには2倍働いていたかもしれません。
20代の頃は、1ケ月100時間の残業をしたし、他方おじさんの中には昼間
から煙草をプカプカふかしているスローモードもいて。彼らおじさんたちは
夕方になると慌てて仕事をし、その分を残業代で請求するという良き時代
でした。勿論超エリートも多かったから、部分的な話ですが・・・。

 昭和40~50年代に、女性で、結婚しても子供を産んでもフルタイムで働
き続けるのはごく少数派で(もしや100人に対して2,3人の割合でしたか)、
小学校のPTAママや姑の目線が何と険しかったことか・・・。
(ジェラシイも多分にあったでしょうが)女の敵は男でなく女で、役所は別にし
て民間社会のインフラも意識も整わず・・・、そんな環境下でおしんみたいに
耐えうる気丈な女だけが生き残ってきた・・・。
 それで大多数の女性は何かしたいと望みながら「男は仕事、女は家庭」
という常識の枠に収まっていたのだと思いますねぇ。

 今でも思い出すわが身の光景は、3人の子供を産休明けのゼロ歳から
保育園に預けて都庁で仕事を続けていた時代です。
 おんぶして、抱っこして、手を引いて、保育園は1ケ所でなく、それぞれに
決められた衣類やオムツを入れたカバンをもち、勿論自分が出勤するた
めのバッグも抱えて。それに雨が降ったりしたら傘もさすのですよね~
(夕方のお迎えも向う先が逆ながら同じでした)

 亭主は何をしていたのかって?
まあ、手伝ってくれた時期もあったけど、周辺も本人も「お前は女房に働か
せているのか」と考える時代だから、私には亭主自体が逆風ですよ・・・。
 だから亭主には期待せずに自助努力をしようと歯を食いしばりました。
頼めば嫌味を言われそうだから考えるだけで余計ストレス・・。
時と場合により最大の敵は亭主だったような気もしますよね・・・。

 話をもとに戻すと、男女の平等は天から降り、地から湧いてくるわけでは
なくて、個々に闘ってきて初めて手に入れられるものでしょうね。
制度を整えても、女性はラクで安全な方に逃げる傾向があるのでは?
元々日本人は闘わない。ましてや女性は・・、でも都合の悪いところでは
男女平等を主張するしたたかさを持っていそうですよ~(笑い)

※あと、誤解がないように伝えたいのですが、女性が家庭で子育てに専念し
 て未来を担う人を育てることは、社会の再生産活動として、とても価値が
 高いことですよね~ だから私には専念できなかった故の弱みがある。

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        10月31日
        東京都庁を去る
        石原慎太郎さん






 石原都知事が4期目の任期半ばで辞職し、国政への復帰を決意した
ようですが、31日、都庁を去るテレビの画面に、大昔を思い出しました。

 美濃部亮吉さんが革新都知事として「東京から日本を変える」と登場
した2年目に、私はまるで大石内蔵助に馳せ参じる赤穂浪士のように
都庁に入りました。
 都庁ではかなり生意気に突っ張っていて、20代で知事の議会答弁を
書き、なぜか外国から知事あてにくる公文書の翻訳もしていたのだけど、
・・・思い出すだけで汗!!
 そしてここぞ一番という場面では座り込みもして決裁を通してもらい、
後年に聞いた話ですが「都庁に武勇伝あり」と言い伝えられたとか・・。

 そして、3期を終えた美濃部知事が丸の内にあった旧都庁(今は国際
フォーラムになっている)を去る日、現在の新宿の庁舎とは違って、ビル
の窓ガラスを開けられたから、上から大量の紙吹雪が舞いましてね~
 歓声の中、美濃部さんを乗せた車がゆっくりと走り出した時、私はただ
一人その車を追いかけました。200メートルくらい走ったかなぁ。

 いわば殉職みたいなものです。
私はこの人のために仕事を選び、職場を選んだ。だからボスが去るの
ならと、それから3年後に私も都庁を退職したのです。
幹部でもないのにおかしな話よね。今や「寄らば大樹」を捨てるような、
こんな公務員はどこにもいないかもしれません。
 これはもはや化石時代の逸話に近いみたいですね・・・(笑い)。