熟女はご意見番

2012年07月

隅田川の花火と素敵な招待

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蔵前の厩橋
付近から打ち
上がる花火





 7月28日、恒例の隅田川花火大会が開かれ、2万発の華々におよそ95万人
が都心の夜空を楽しんだそうですよ~

 私には墨田区の本所1丁目に住む大学院の同級生がいて、あり難いこと
に毎年声をかけて下さるので、今年も隅田川の畔にあるマンションの8階から
目の前2ケ所に打ち上がる花火を見て童心に返り、思わず「ひゃっほー!」
なんて叫んだりしていました。

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 花火はあのはじけ散る音と彩り豊かな炎の華が分裂的な広がりを見せ
るので、自分の元気が何十倍にも湧きあがるような思いがしますよね~。
同時に平和の象徴も感じて、生きていて良かった! なんて感じる瞬間
です・・・。

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 私は毎年のようにこのお宅に伺って、花火以上に素敵だなと感じることが
あります。こちらの主は、40代のT.Dさんご夫妻で、お二人共に一級建築士
の共働き、中学生と小学生のお子さんがいます・・・。

 東京の隅田川界隈に住むとはいえ、普通の家庭で、「どうぞ花火を観に来
てください!」と自宅を開放し、毎回20人前後の友人知人(+そのまた友人)
を受け入れてくれることに頭が下がり、感動するのです・・・。
 こういう話、東京では稀有になりましたもの。
公共経営を一緒に学んだ仲ですが、この大きな包容力に何やら「三丁目の
夕日」の時代が思い出され、この先は日本にも良いことがありそうだよねぇ
と希望が湧いてきます.

 特に私は今回、20代から 60代まで 6人のゲストをお連れしました。
元々はテニスの仲間で「28日に暑気払いをしようか」と店の予約もして・・
「そういえば28日は隅田川の花火があるよねー、毎年招いてくれる友人が
いるのよ~」と言った瞬間、「羨ましいなあ、連れて行ってください!」と・・・。
 そうですよね、暑く混み合う街頭で観る花火より遥かに快適ですものね。

 T.Dさんに恐るおそる 「ゲストは何人までならいいですか?」と聞いたら
「何人でもいいですよ~、50名は困りますが・・・」と。素晴らしい器!

 私を含めた7人で、女性3名は手作りの料理を7~8品目持ち込んで、
20代の若者やおじさま等4名はお酒やつまみを持参してテーブルいっぱいに
並べ、花火が始まる前からまずは前祝いのスタートです。

 時折は近くで聴こえるバリバリ音を耳にしながら、花火はテレビに目をやり
飲んでおしゃべりも。この渋い技は熟女だからこそ絵になる粋ですよ~(笑い)。

 一方、ドカンと座り、飲みと雄弁が延々続く(我ら)テニス仲間のO弁護士は
身長も言動も190cmサイズのダイナミズムで、だんだん臨時主の舞台をつくり
失礼しました! でもナイスガイの彼も一緒に行った6名も本当に楽しくて、
真夏に向う気合のリセットボタンをONできたことも嬉しいです。
⇒もしも、本物主がお困りの際は、チーム7人を代表してOさんがご恩返し
のために、格安でご相談に応じますので、どうかご安心くださいね!(笑い)

 アメリカ人やイギリス人、中国人夫妻も参加して、ちょっとした国際パーティ
でしたし、私にとっては久しぶりの同級生達にも会えて、最高のひと時でした。

 広いベランダから夜空に広がる大輪の華を満喫しながらも、
人の大らかさと優しさやユーモアにも花が咲いた感じで、お腹を抱えて大笑い
できた隅田川の宵に乾杯です!!

 






いわさきちひろの童画と母

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婦人画報
8月号より









 絵本画家・いわさきちひろが1971年に描いた「赤い帽子の男の子」。
55年の生涯で約1万点の原画を残した中の代表作ですね。

<映画「いわさきちひろ~27歳の旅立ち~」>

 7月22日に有楽町イトシアにある映画館で、ドキュメンタリー映画
「いわさきちひろ~27歳の旅立ち~」を観ました。
あのほんわかして可愛い童画を描くイメージからは想像できないちひろ
(知弘)の挫折や心の傷、そして絵にかけた生涯を描いたものです。

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        1973年のいわさきちひろ
        亡くなる1年前(54歳)
        婦人画報 8月号より

 











 1918年、陸軍の建築技師を父に、女学校教師を母に、当時としては
かなり裕福な家庭に生まれる。(母の単身赴任先・福井県で出生)
 府立第六高女(現在の都立三田高校)卒業後、美大への進学をめざすも
両親が猛反対。20歳で強いられた結婚をし大連に渡るが、2年後夫が自殺
して帰国。戦争で東京の自宅から焼け出され、松本にある母の実家に疎開。
のち両親は戦争に加担したと公職追放される。ちひろは日本共産党に入党。
絵を描きたくて1946年、27歳で家出同然に松本から焼け野原の東京へ。
 いわさきちひろの童画には「お願い、この子たちだけは傷つけないで・・・」
という平和への深い願いがあるとのナレーションに頷きました。

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<ちひろの母、岩崎文江さんの思い出>

 映画の前半で登場する両親・・・特に母親の長女・ちひろに対する厳しさは
時代の背景があったとはいえ、まったく想像を超えるものでした。 
 母親の岩崎文江さん、1890年松本生まれ。旧制松本高等女学校を卒業後、
奈良女子高等師範(現在の奈良女子大学)の第一期生に入学し、女学校の
教師として単身赴任をしていたようなとび抜けたエリート女性です。
 
 
  私は17歳で『晩年の岩崎文江さん』に前代未聞のお願いをしました。
(こう申し上げると、えっ! あなた何歳なの?と驚かれそうですが,こちらは
 10代で、お相手は晩年ですよ~・笑い)

だから、この映画をちひろ物語としてだけではなく、文江さんの人生と重ねて
観ていたのです・・・。
 映画のスチール写真で見る若いころの文江さんは美人で、(戦前から)つば
の広い帽子を斜めに被るモダンガール。私がお会いした文江さんとはまるで
別人に見えましたが、やがてはちひろさんの50代によく似ていましたね~

 
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晩年の岩崎文江さん
(同窓会長の頃)




 岩崎文江さんが卒業した旧制松本高女はのち長野県立松本蟻ケ崎高校
(後述)となったのですが、ここは私が在学した女子高なんですよ~。
 当時の同窓会長が岩崎文江さんで、脳血栓で倒れ83歳で亡くなる直前まで
17年間在任しておいででした。

  私は高校3年生ー17歳の夏、4人の同級生と共に、学校の敷地内にある
 同窓会館に岩崎文江さんを訪ねて行きました。
 その当時、文江さんは確か会館の脇に一人住まいのおばあちゃまでした。
 私は多分こんなことを申し上げたのではないかな~

 「岩崎先生、この夏休みに会館に泊まり込みをさせてください!」
 「これからは女性も社会に出て、人の役に立つ仕事をする時代だと思います。
 だから受験勉強をして学力をつけ大学に進学したいのですが、お互いに
 教えあい競争するには、みな自宅が遠く電車通学なものですから・・・」

  今となればウーン、恐るべし、驚くべしの陳情ですね~(笑い)
 文江さんは最初鳩が豆鉄砲を食らったような表情をされていたかなあ。

 この突拍子もない申し出に、文江さんはしばらく考え込まれたのち、
 「分かりました! 皆さんの熱意を買いましょう! その代りひたすら勉強する
 のですよ。厨房(同窓会・料理教室の設備)も気を付けてお使いなさい。
 学校には私の方から説明をしておきます。何か困ったことがあれば、すぐに
 私に言ってらっしゃいね」・・・と孫に接するような優しいまなざしでした。
 そして時折様子を見て下さり、差し入れも頂戴したような記憶があります。

  こうして10日間以上泊まり込み、毎日朝から晩まで15時間くらい勉強をした
 ように思うし、合宿後も自宅でイケイケドンドンのねじり鉢巻き。
  休み明けの試験では(1学年400名中)全員が10番以内に入る成績を残し
 たような記憶があります・・・。 もう忘却の彼方の話ですけどね。
 (あの時、ねじり鉢巻きをした割には、今はこんなもんですよ~ ・笑い

 
  今の時代に置き換えると、高校生が学校の校舎内は勿論のこと、別の
 責任下にある同窓会館に何日も泊まり込むなど、考えられないですよね。
 「何か起きたらどうする」がすべての価値基準で、事故の可能性だけで
 マイナス、マイナスで差し引き、誰も責任負いたくないが殆どですから・・・。

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<岩崎文江さんから, ご褒美はちひろの童画>

  今日で合宿を終えて帰りますと、文江さんにお礼のご挨拶に伺った時、
 「よく頑張りましたね~」と言いながら、私たち一人一人に、はがきサイズで
 子どもを描いた絵を下さいました。笑顔の文江さんを今も思い出します。
 「私の娘はね、ちひろというのですが、こんな絵を描いているのですよ。
 記念に差し上げますから、どこかに飾っておいてくださいね」・・・・と。

  今思えば40代半ばで絵本画家としてバリバリになり始めた頃のちひろさん
 が描いた淡い色彩のスケッチ原画でした。あの貴重な絵はどこにしまったの
 だろう・・・。 ずっと探しているのだけど、まだ見つかりません(苦笑)。

  娘の進学希望をトンデモナイと反対して断念させ、あげくは見合いを強要
 して結婚させ、結局は愛情が通わないまま夫が自殺し、ちひろは傷心して
 帰国。更に戦時の女子義勇隊としてボロボロのちひろを満州に送り込む。
  こんな鬼みたいな母だった文江さんだけど、彼女にも深い傷になって残り、
 きっと長い間苦しんだことでしょうね。
  だから、亡くなる直前まで女性たちのサポートに専念し、私みたいに跳ねて
 トンデル女の子が若い頃のちひろさんとダブって見えたかもしれません。
 「熱意を買いましょう」と言った文江さんの心情を思い映画館で涙が溢れました。

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松本蟻ケ崎高等学校

 
1901年(明治34年) 松本高等女学校として開校
 松本高女の時代には、明治の歌人・土屋文明が校長に着任したこともあり、
 岩崎文江が女学生として学んだのは明治の終りだった。
 大正時代には、清朝の王女で男装の麗人といわれた川島芳子(愛新覚羅 顕㺭)
 が義父の自宅・浅間温泉から馬で通学していた。

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松本高女に通学
した 川島芳子





 戦後は電電公社初の女性管理職となって、日本有職者婦人クラブ会長
 を務めた影山裕子が在学し、
 近年ではパフォーマンス学の第一人者・佐藤綾子も卒業生。
 また最近話題となった、フランスのルイ・ヴィトンが、新たなデザインとして
 取り入れた前衛芸術家 草間彌生も大先輩だが現役で活躍している。

 一方、私が在学した頃迄は女子高として長野県のトップレベルだったが、
 1975年に男女共学となってからは、学校群制度の導入と重なり、
 「自由と責任」を重んじた個性的な女子教育の場※ が失われて 
 看板は同じでも 別の学校になった感がある。

  
              
 ※講堂正面に『自由』と掲げられ、校則は皆無で、制服もなかった。



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         前衛芸術家
         の草間彌生



















再び総理官邸のデモに行く

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雨の中を集まる
人々と機動隊
マスコミもいる



 
 7月20日(金)、6日に続いて「原発再稼働反対」を一言叫んでこようと
総理官邸に向かいました。(前回は部隊に近寄れず覗き見だけで、まる
で観光客みたいだったから一緒に反対の意思表示をしようと思い・・・)


 今度は有楽町からタクシーに乗り、国会議事堂が見える総理官邸の
近くで降車したのですが、今日も国会議事堂を囲む道路は立ち入り禁止
の規制にかかり、またまた前回と同じように衆議院会館や国会図書館前
を傘をさしながら大回りさせられて・・・、ホント足が重くなりました。
 私が着いたのは5時頃で、デモの開始まで1時間ほどあり、さほど混雑
が生じていないにしては大げさですよ~
彼ら機動隊は一体誰を守って市民の行動を規制するのでしょうねぇ・・・。

 初回では気が付かないことを発見しました。TVに映るシュプレヒコール
をする人々は、官邸からも議事堂からもかなり離れた道路に列をなして
いわば遠巻きにしているだけなのです
。画像ではどこか広場めいた場所
に集まっているイメージだったので、今回もその広場をめざしたのですが。

早めに並んで主催者の担当に「これからどこへ動くのですか」と聞いたら、
(広場はすべて封鎖されているから)「行列しているここ(道路)から移動
はないのですよ」と言われて、「えっ! そうなんだぁ・・・」

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    赤い旗が見える
    方向が最前列
    皆さんお行儀が
    良いのです・・・




 6時からリーダーが拡声器で 「再稼働反対!」と叫ぶと、参加者が
続きます。私も永年ぶりに「ハンタイ!」を連呼しましたよ~
 でもねぇ、お行儀が良すぎる。雨の中を集まった善意の参加意識は
理解しつつも、デモをするなら機動隊の言うがままに優等生をしている
だけじゃー、そりゃあ軽視されるよ・・・と硬派の私は少々落胆・・・。

「車なんぞは止めるくらいに一斉に道路に飛び出して、周辺一体を占拠
し、機動隊が盾を持つ状態でも国家権力と闘うのよ」とラディカルに言い
たいけど、周囲の皆さんは全くそういう表情ではありません(苦笑)。

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 若い女性が行列の一人一人の顔を伺いながら、まるで人探しをしている
様子で近づいて来て。それが私の前でピタリ止まりました。「えっ?!」
すると、「北海道新聞の記者をしている山本ですが、お話を聞かせていた
だけませんか?」
 うちの娘もマスコミの報道記者をしており、同じように名刺や記者証を出
しながら突撃インタビューをしてきただろうから、何やら返礼の気持ちで
質問への回答に協力しましたけど・・ね。
参加の理由や、この状況をどう捉えて、どう感じるかなどを聴かれました。
 この周辺で大騒ぎをした50年前、40年前の安保闘争なんてピンと来て
いない若い記者は新旧取り混ぜたデモの話をうまく記事にできるかなぁ。

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 そういえば、この女性記者から「今日のデモに鳩山元総理が顔を出
すと聞いていますが、どう思いますか?」と聞かれました。
⇒「デモは市民が政治権力と相対して闘うのに、なぜ「まと」の権力が、
しかも与党の元総理が出てくるのでしょうね。パフォーマンスでしょうが、
あの人は相当ずれていますよ」と正直に回答しておきました(笑い)。


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これが官邸前の
デモ隊。ウーン。





<アメリカ市民の政治参加とは>

 昨年来、所属する公共政策研究所の研究員として「アメリカ市民の政治
参加手法について」調べており、現地からのレポートがほぼ集まったので
今、中間のまとめに入っているのですが・・・。

アメリカの市民は、日本と較べると
 ①政治家へのアクセスが身近で容易だし、
 ②政治に働きかけるチャンネルが豊富だし
 ③地域の財団や教会や、大学が協力するし
 ④住民による自治の精神が高いし、
 ⑤根底には寄附の文化があります・・ね。

 でも、これらは幼稚園や小学校から行われるシチズンシップ(市民)教育
の成果でしょうね。何といっても教育が違うのですよね~

 
アメリカは国家の繁栄と安全保障のために、民主主義の装置
 をブラッシュアップして、できるだけ国民の自治意識を高め、
 市民参加や政治参加を可視化して、英知の結集を図ることが
 最良の手段であると考えているのだろうと思います。
ホワイトハウス脇の公園で集会やデモをするのは日常的ですしね。


 日本の官邸デモ。私のような硬派のデモをしてきた人間から見ると、
物足りない反面、このカジュアルさは成熟の証? なんて思ったけど、
規制線を張られて、道路で整列だけしか許されないのは、やはり50年の
ブランクだよねーと思うし、機動隊と衝突を避ける手法は結構だとして、
政治家を動かす程アピールできるかはかなり疑問で、それはノウハウが
浅いのではと感じますよね。(60年安保は内閣を転覆させたものね~)
どういえばいいかな、
要は「デモをする権利」が薄められて、アピールの手法が限定的ですね。

 アメリカ人の市民デモは、そもそも身近なことから声を上げるのが
普通だから、行動する、メッセージを伝えることは自然体でやれている。
洗練された結果、市民運動がお洒落でファッショナブルなんだそう。

で、日本人も一挙にこのレベルに近づいたか? なんて瞬間的に考えた
けど、皆さん総じて、表現の場の過度な制約にもひたすら従順な様子を
みると、やはり気合もノウハウもその蓄積は不十分なんでしょうね・・・。

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 私は感情の起伏がなく、B型流に楽観的なので、普段はいつもご機嫌
で暮らしているのですが、今日の帰り道ばかりは誰かに向かって
(日本人が永年権利行使を放棄したためノウハウを蓄積できず、むしろ
制限が大きくなった意味で)『ロスタイムを返して!』 なんて叫んでみた
い思いで会場を離れました。雨が降り、妙に冷え込む夜の始まり。

⇒行った先は有楽町のガード下にある鮨屋 「すしざんまい」です。
 超お姉さんがカウンターに一人座り、「熱燗1本ください!」(笑い)。
 KYさん、仰せのようにホント熱燗が美味しかったですよ~!
 







コバケン兄妹,ふるさとを歌う

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7月25日に
発売される・・
CD「ふるさと」



 
  クラシック指揮者のマエストロ・・小林研一郎さんがピアノを弾き、
実妹の一ノ関佑子さんが歌うスタイルで2枚目のCDを出されました。

 ご兄妹とのご縁で企画の段階から話を伺い応援させていただいたので、
CDは早めに私の手元に届いています。
冒頭で佑子さんが歌う「ふるさと」を聴いた瞬間、思わず涙がこぼれました。
 佑子さんは芸大で学んだ声楽家なので本来は正調でお歌いでしょうが、
このCD収録に当たっては「歌い方を変えて、はじめて台詞を語る思いで
歌ったんですよ~」と電話をいただきました。
一言一言、言葉をかみしめて十分に想いが伝わってきますよ~

 コバケンさんと佑子さんの兄妹が育ったふるさとは福島県のいわき市・・
小名浜で、今は復興に向かっているとはいえ、故郷への喪失感は消えない
でしょうし、郷里の友どもの傷心を励まされていらしたのだと感じます。
歌とピアノを通じてお二人の思いが切なくダイレクトに響いてきますね~
やはり本物が伝える感動は素晴らしいものだなぁと思いました。

 浜辺の歌、ゆりかご、ロンドンデリー・エアー、初恋、千の風になってなどを
佑子さんが歌った最後に、コバケンさんが唯一歌う「アカシアの径」・・・もしや
彼は涙声ではないかな~と感じます。(えっ、ケンちゃん、何かありました?)

 コバケンさんはあの広いサントリーホールでマイクなしにスピーチができる
程、声量がおありですが、歌が大好きで歌心が豊かなんですよね・・・。
早稲田大学グリークラブの公演で、この歌をグリー7~80名をバックコーラス
にコバケンさんがソロで渋く歌った場面とエピソードを思い出します・・・。

 リハーサルの際に「智恵子さん、ぼくはステージでどんな格好すればいい
の?」と尋ねられたので、「フェルトの帽子を深めに被り、トレンチコートに
片手を入れながら歌って、終わった時には帽子を会場に向かって放り投げ
そのまま舞台のすそ野に消えるのはいかがですか?」と伝えたら、
「そんなキザなことはできないよ」と逃げられました(笑い)。
 ということで、映画「カサブランカ」のハンフリー・ボガート演出は失敗!
 
 
 
 もう一つ思い出しました。確か美智子皇后がご臨席になった時にも、
陛下に捧げる歌が「アカシアの径」でした。何も失恋の歌を・・・と思いました
が、美智子さまはスタンディングオベーションをされて拍手!!


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      とあるバーにて
      コバケンさんの
      ピアノ伴奏で
      「荒城の月」・・。
      
     





 
 
 
 余談ですが、小林研一郎さんはクラシックこそが最高で・・・とは申されず、
演歌も歌うというリベラルな音楽感には脱帽ですね・・・。
超ご機嫌の時は、ご自分で美空ひばりの「悲しい酒」を弾き語りで、しかも
台詞を含めてドイツ語で歌いますが、これは絶品ですね・・・。
あと尾崎紀世彦の「また逢う日まで」も本物をしのぐ程素敵でした。
そして、写真のように時折ピアノ伴奏を付けて下さる場面はお宝ですが、
合唱団の一員で「モツレク」を歌った時には、厳しいご指導でしたねえ(苦笑)。

 コバケンさんと佑子さんの想いと励ましをお裾分けしようと、
CD「ふるさと」を岩手県や福島県で暮らしている友人や知人に贈りました。
少しでも元気になってくれると嬉しいです・・・。
 

<CD「ふるさと」>
 オクタヴィア・レコード 3000円
 





     

核廃棄物の安全に10万年!

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フィンランドの
核廃棄物処理
場「オンカロ」
の入口






 先日NHKの再放送で、時任三郎がフィンランドの「オンカロ」を紹介する
番組を観ました。
 「オンカロ」はフィンランド語で「隠し場所」の意味をもつ核廃棄物の最終
処分場。太古の岩盤層を深さ500mまで堀り、1,2年後から国内の廃棄
物を搬入して、100年後に満タンになる時点で10万年間封鎖されるもの。
(フィンランドの原子力発電所は1979年以来2ケ所が稼働し、電力の3割
 を担ってきた)

※日本は青森県六ヶ所村に一時保管しているものの、最終処分場は未だ
 決まっておりません。

 フィンランドは核廃棄物の放射線が生物にとって安全レベルに下がるまで
10万年間を要すると考えているのです。そして、この最終処理場は革命、
戦争、気候や地殻の大変動にも耐えうる場所でなくてはならぬとして、
太古の岩盤層を選んでいる。
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     地下300mまで
     掘られたオンカロ
      の内部








 このオンカロをテーマにアメリカ人のマイケル・マドセン監督が
ドキュメンタリー映画「100.000年後の安全」を制作して、DVD
リリースのために、今年2012年の2月に来日しています。
 この時、マイケル・マドセン監督は「日本は福島に(地下ではなく)
地上のオンカロを持ってしまった
」と語っています。

(彼の解釈に沿うと、福島のオンカロはこの先10万年間、放射線
 を出し続けるということになりますよね・・・心臓がバクッとします)

それに関連して監督は、以下のようにも発言しました。

『日本人は十分な情報を与えられていないことに疑問をもたず、
本当は何が起きているかも知らず、しょうがないと原発を受け入
れている。
 そもそも最終処分場ができないままに54基もの原子力発電所
をもっているし、福島に次の地震が来ないという保障もない。
まるで、中華料理の回転テーブルの上に放射性廃棄物が入った
鍋や皿を置いているようなものだ、
 この意味で、日本人はメンタル面でもメルトダウンしている』

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福島第一原発
爆発直後の惨状






 放射線が安全レベルになるまでに要する歳月が10万年!?
 気が遠くなるような数値に、反応の術が分かりません・・・。

 追及を嫌う国民性からか、いつも曖昧模糊な問題対応しかできない
日本の現状は、原発だけに限らないですよね。
 3.11から1年4ケ月。今日も国会は結論を出せないまま、ああでも
ない、こうでもないと・・議員ごっこを続けているみたいです。
 











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