熟女はご意見番

2012年08月

映画「あなたへ」と高倉健さん

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妻の故郷・・
長崎県平戸
の写真館で





 8月25日に封切られた映画「あなたへ」を観てきました。

ご存知 高倉健が6年ぶりの復帰出演で、北陸の刑務官 倉島英二
が亡き妻洋子の遺言に沿い、キャンピングカーを運転して富山から
妻の故郷ー長崎県平戸市の薄香湾まで一期一会の旅をしていく物語。

 撮影期間中の移動距離は9000km。 富山県から始まり、岐阜県
の飛騨高山、大阪・京都・兵庫から下関、北九州、長崎と、その間に
様々な人と巡り合い、少しづつ妻の想いが解けていく・・・。
 今の日本人が忘れているような出会いや会話に涙が止まりません・・・。

 今回も健さんはユニフォームを着て、右手で敬礼をする職業ですが、
固くて無口で、不器用そうで、でも人生に深い拘りをもつという渋い男
が似合っていました・・・。
(高倉さんは福岡県の出身、父親は海軍の軍人だったそうですね)

 1931年生まれの81歳だけど、その立ち振舞と表情が「おじいさん」
ではないのです。年齢を超えた大きな存在感が最高に格好いい! 
(お役では刑務官を定年退職して嘱託で働く60代を演じました)

 女優の岸惠子さんもそうでしょうが、健さんや惠子さんに会った人は
きっと誰もが(俗世間でいう)老人の印象を持たないだろうなぁと思いました。
 なぜだろう・・・。背筋がピンとしていて、その表情に「自分は最後まで
この生き様を貫きたい」というぶれない信念があるからではないかしら。
(身長が180cmあるというのも絵になり得をしていそうですが・・・)

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共演者も良いですね。
 妻役の田中裕子。刑務所を慰問する童謡歌手として高倉健と出会うの
ですが、田中裕子が歌う「星めぐりの歌」(宮澤賢治作詞・作曲)が浮世離れ
していて感動的でした・・・・。
 
 佐藤浩市、余貴美子、綾瀬はるか、三浦貴大、長塚京三、ビートたけし
など脇役のキャラクターも光っていましたよ~


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<聞いた話ですが・・素顔の高倉 健さん>

 お会いしたことはありませんが、健さんはどうやら品川駅前にある
パシフィックホテル(2011年からはshinagawa goos)にお住まいで、
この界隈(港区高輪)をよく出入りしているようなのですよ~

 元々、1982年に逝去した江利チエミさんは泉岳寺近くのマンションで
30年前に45歳で亡くなっていますが、その後このマンションは(71年に
離婚した夫)健さんが受け継ぎ、(何件も自宅をもっているらしい・・・) 
それ以来、泉岳寺を含む高輪の周辺を離れなくなったようです。

 品川駅前のホテル パシフィック東京を拠点に2Fにある「理髪 佐藤」
に事務所をおいて、理髪師の佐藤さんが秘書役をしているようなので
個室に健さん専用のPCや電話・FAXがあるというNHKの番組「プロフ
ェッショナル」が理解できますよね。 考え方が斬新ですが、私に置き
換えると美容院に個室をもち、専任の美容師が秘書なんていいなぁ。

 このホテル3Fに加賀料理の大志満(おおしま)があるのですが、健さん
は天ぷらがお好きで、カウンターに何人ものお仲間で座り・・・。
 この話を同じカウンターで店の料理長さんに聞いたときに、私はこんな
質問をしました。

 「高倉健さんは、映画の役と同じように寡黙なんですか?」
⇒「いえ、いえ、お連れさまとよくおしゃべりをして笑ったりと、とても
 賑やかなかたなんですよ~」

 ブブ~ 大外れ!(笑い)
 きっと彼の陽気さも年齢を感じさせない秘訣なんでしょうね・・・。
 ちなみに健さんの血液型はBらしいです。
 私も同じマイペースの自由人 B・・・・親戚みたいで嬉しいな(笑い)。






山本美香さんかプラグ人間か

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   多数のマスコミで報道されているように、8月20日、シリアの内戦を取材してい
た山本美香さん(45歳)が、北部にあるアレッポにて政府軍の攻撃を受けて死去
されましたね・・・。
 ジャパンプレスに所属してイラク戦争など、世界の紛争を伝える仕事をしていた
フリージャーナリストです。
 今回初めてお名前を記憶しましたが、相当な覚悟をもって現地に挑んでいたの
でしょうが、こんな凄い日本人女性がいたことに驚がくしました。

 同行していた佐藤和孝さんは15年前から事実婚にあるパートナーということです
から、夫婦であんな危ない所にいたのですか・・・。
まだやりたいことが山積みだったでしょうが「シリアでこんな惨いことが起きている」
と世界に向け身を挺して最大級の報道につなげた意味では、本望だったかもしれ
ないと思え、その勇敢な生きざまと鮮烈な殉職に畏敬の念を抱いています。

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山本さんのように危険を承知で命をかけた短い人生がある一方で、 
 日本人の寿命が延びに延びて、特に女性は大病をしなければ90歳前後まで
生きることになるのですが、長短ではなくその生き様が問われますよね~

 先日、新潟市に住む学校の後輩(女性)からメールをいただき、分かってい
たつもりでしたが、高齢者の療養病棟の話に衝撃を受けました。

(7月にお母さまが20日程入院をした際に)

 「病院で初めて高齢者の療養病棟を目にしました。たくさんの寝たきりの老人
が食事も摂れなくなり、点滴につながれています。
廊下を歩く患者さんは一人もいません。
私はその光景を見て、瞬間的にキアヌ・リーブス主演の『マトリックス』(1999年の
アメリカ映画)に出てくる『プラグにつながれた人間たち』を思い出しました。
 あのお年寄りたちは、あのような状態で生き続けることを本当に望んでいるの
だろうかと今でも思います」

心理学を専攻した彼女らしいアプローチです。
後半でこんな結びがありました。
「人間は一度は死ぬわけですし、一番良い死に時というのがあると思うのです」

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 この話に、もう一つの体験を思い出しました。
このblogで6月に書いた「旧制松本高校と松崎 一先生」の松崎先生が、夫人に
先立たれ、松本郊外の高齢者ケア付きホームに入所されていた時のことです。

 私がお訪ねしたその施設は周辺が緑に囲まれ、小綺麗に整えられていました。
先生は80代の後半で、足腰は弱くなられましたが、ダンディぶりは変わらずで、
私やヘルパーさんに冗談を言って周囲の空気を和ませてくれました。
(この辺はさすがに、防空壕でもジョークを飛ばしていたという・・ 作家・北杜生の
 恩師ならではですよ~・・・笑い)

 でも余裕があってお茶目な人は滅多にいないのが現状で、3時のお茶タイム
には、広い交流ホールにヘルパーさんが各部屋から高齢者を一人一人車いすで
連れてくるのですが、ホールはシーンとしています。入所者同士の会話がないまま
居眠りをしている人もいて、テレビの音ばかりが響いている・・・。
 生まれも育ちも暮らした場所も、職業や家庭環境もバラバラに生きてきた高齢者
同士が、いきなりコミュニケーションを取ろうにも身体も頭も心も不自由になり、
どうにもやりようのないのが現実ではないでしょうか?

 『プラグにつながれた人間たち』ではないけれど、あまりに寂しい光景でした。
最近、人と人とがアナログで語り合わなくなっている傾向を感じませんか?

 PCは便利だし、携帯メールもお手軽ですが、たまには線付き電話の長話も
いいですし、手書きのレターがポストに入っていると嬉しいですよね~
いただくことを期待するだけでなく、まずは自分で発信し、自分で集まりを考えて
周囲に声を掛けていきたいなぁと、相変わらず宴会人間を続ける運命・・・(笑い)
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 プラグ人間に近付かないためには、元気でいる限り、自分なりの志を持ち続け
できる範囲で行動することでしょうね。
今ちょっとした寺子屋を準備中で志の高い若者を1本釣りしたいと考えているの
ですが、「志をもつ」とは・・・①から③を認識して、一歩づつ踏み込んでいくこと
だと思います。

①どんな社会を望んでいるのか
②(そのために)どんな貢献をしたいのか
③なぜ自分がやらなければならない.のか

 山本美香さんは①②③を満タンにして命がけの行動をし、鮮烈な殉職を遂げた
・・・・そんな思いがしています。




野次馬が観た銀座パレード

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車は大歓声の
中をゆっくりと





 20日のロンドン五輪メダリストによる「銀座パレード」は、野次馬として見逃す訳
にはいかず、炎天下を日傘に帽子に水にカメラ持参で出かけてみました。
 生の選手たちはどんな若者だろう。観衆はどんな人々がどう集まるのか・・・。


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                               銀座1丁目のMELSA前でじっと待つ・・


 午前11時に銀座1丁目をスタートして8丁目(新橋寄り)までの1kmを20分
というパレード。(当日約50万人と発表されたが)午前10時には 20万人くらい
が集まっていたかもしれません。 上の写真は10時45分頃です。

 杖をもつお年寄りから、子どもを含む家族連れまで・・・老若男女の大群・・・。
多分日本各地、相当な遠方からも上京したのでしょうね。
人それぞれの思いをかけて、どうしようもない暑さでも集まるパワーに脱帽~
 歩道から車道の中まで見物の範囲を拡大されて、しかもメダリストは2階建て
のバスに乗るから、観客は無理なく観れた点が良かったなあと思います。

  登場した選手は屈託のないピュアな印象の若者たちでした。
メダルと同様に表情が輝いて、彼らも十分に感動していたみたいです。
体力や資質、家庭環境は勿論、子どもの頃からの英才教育や資金的な支援
を含むバックアップ装置に恵まれて、世界と闘えたのでしょうね。
 本来はスポーツ以外の分野でも、社会から金メダルや銀メダルを受けられる
エース級リーダーを育成しないと国や地域社会の発展存続が望めないように
思いますが・・・。

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                                                  4号車には女子バレーの木村沙織。185cm は大きい!

 パレードが進んでも、観客はお行儀が良くて、押し合いへし合いをしない
のです。自分の持ち場でそれなりに協調していることは日本社会の成熟を
感じましたね。
 
 
 これを中国との対比でみると(2010年に上海万博で見た光景と較べ)
中国ならこんな秩序は到底保てないでしょうね。
仮に並んでいても、いざ入場となると、列を乱し、我先にと力づくで飛び出し
ていく・・・。これが13億人の競争社会の現実かもしれません。

(先日も東京の山手線に乗っていて、品川駅で降りようとしたとたん、先に
中国人らしき女性が乗り込んできたので、思わず 「降りてからです!」
と叫びましたが、中国ではこれが普通の感覚みたいですよ~苦笑)

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(テレビの映像から)











<この先は余談・雑談です>




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      同じ集まりでも
      こちらは中国
      の反日デモ










 
   こんな最中の中国各地では人が集まり、反日デモが行われていますよね~
プラカードを掲げて行進するのは意思表示としてご自由にですが、
日本車やレストランを襲撃するのは野蛮としか言いようがありません・・・。

 片や日本人は感謝や感動を求めて銀座に50万人。特別な主張はいらない
快適な場を好んでいそうです・・・。
 片や中国人はとても客観的とは思えない主張を疑いもせずに繰り返す。

 教育や環境の違いは大きそうだし、日本人はマナーが良いよねだけではすま
ない部分もありそう。
 北方領土、竹島、尖閣諸島とかなりシビアーに攻められて、「遺憾です」とか
「厳正に対処します」なんて言いながら、実際には目先の火の粉を追い払うだけ
で覚悟を決めて向き合えない今の権力者と、主張を避けがちな日本人の国民性
はセットかなぁと思いますね。
 黙って見逃すだけでは問題が解決できないことも多いのに、戦略や戦術を考
えて交渉カードを用意し、駆け引きをすることができない今の権力者たちには
不安と失望を感じませんか? 
(これからの子どもや若者にはプレゼンテーションや交渉術の教育が欠かせない
ものになりそうですよね~)
 
 派手な銀座のパレードを楽しみながらも、時期が時期だけに、話が遠くまで
飛んでしまい失礼しました!(苦笑)
 






巡り合った豪快な呑兵衛たち

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プリンスホテル
さくらタワーの
七軒茶屋にて









<呑兵衛1.マガジンハウスの木滑良久さん>

 平成7年(1995年)頃に雑誌「RELAX」の商標を借りたいと
マガジンハウスから話をいただき、直々に訪問くださった人が
当時の社長 木滑良久(きなめりよしひさ)さんでした。
( 「relax」は1996年に創刊され、 10年後の2006年に休刊)

 社名が平凡出版だった頃に「平凡パンチ」を誕生させた編集長と
して鮮烈なデビューをして以来、アンアン、ブルータス、ポパイ、
HANAKOなどを生み出した敏腕プロデューサーで、のち、社長、
会長となられ、82歳の今も取締役最高顧問としてご健在です。
日本雑誌協会の会長にも着任されていましたね。

 木滑さんは当時60代ですが、サスガに遊び心満載の大物!!
感性が若者並みに瑞々しく、話題がお洒落で最先端で、楽しい会食
をしばしばご一緒したのですが、何よりもお酒が豪快でしたね~

 お馴染みの料亭に同行するとお料理と共に日本酒が出されるの
ですが、最初の一杯はともあれ、お猪口(ちょこ)でさしつ、さされつ
というお互い面倒な酌み交わしはありませんでしたね~
 お席もL(エル)字とか、コ(こ)の字に配置されて、マイペースで
お酒をいただくための独立性がセットされるといいますか・・・(笑い)。

 誰かのお銚子が空くと、良いタイミングでお姐さんが入ってきて、
各人にお銚子が2本くらいづつポンポンと「配達」されます。この場合
は勿論小さいお猪口ではありません。相当な大きさのぐい飲み。

 「いゃー、もうこの位で」なんて躊躇してこのペースに追い付けない人
は天下の名編集長・木滑さんから数々の話題を聞ける最高の酒席は
ご遠慮くださいということでしょうか(笑い)。
そして宴会が終了になろうが、あまり酔っていないのですよ(オオっ!) 
そればかりか、木滑社長を含めて編集幹部の皆さまは仕事に戻って
行くことも度々だったかもしれません・・・。
「酒は飲んでも飲まれちゃならぬ」の別世界でしたね~(笑い)。 

※マガジンハウスはかって、社内で一杯飲みながら仕事をすること
 OKや、麻雀をしたり、昼寝をしたり、家に帰らず連泊も自由など、
 遊び感覚と仕事をクロスさせ、人気no1の雑誌を次々と創りだして
 きたようですよ~。(今はもう許されないらしいですが・・・)

 近年就職人気と競争率が高まったので、労組の要求もあり、採用
 試験にペーパーテストを重視した結果、東大出が増えて・・、中身が
 面白くなくなり、雑誌の売れ行きが鈍ったという話を小耳にはさんだ
 ことがあります。こういう話、至る所にありませんか?(苦笑)


<呑兵衛2.テニス仲間の和田章宏さん>

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 東京青年会議所テニスクラブの仲間で、若いころから皆で和田さん
をリーダーに、30年一緒にテニスや宴会を楽しみ、日曜練習会の運営
はスター(和田さん)と雑用係(私)の二人三脚でしたね~
 当blogの「三田もBarにいる」のBarサンクは元々和田さんに連れて
行かれた店で、テニス仲間でよく出入りし、そのうち私一人でもフラッと
立ち寄るようになったのですよ~

 慶応高校から経済学部へと進み、超お坊ちゃまが多い義塾の中でも、
ぴか一のダンディだったと今も伝説になっている人です。
 ワインやウイスキーなどお酒の知識がダントツで、その場の雰囲気や
同行者の好みにあわせて、選択とオーダーができ、三次会や四次会に
ならない限り、酔った姿を見せない点で上品で綺麗なお酒でしたね~
(元気だった頃は週に5日6日は飲み歩いていたのでは・・・?)

 2010年12月に惜しくも逝去されましたが、最期の舞台をテニスコートか
馴染みのBarでと望んでいたらしく、亡くなる3ケ月前まで真夏のテニス
コートに現れ、2週間前には病院からBarに現れたという武勇伝も。
 だから、東京青年会議所テニスクラブが主催したお別れの会は「三田も
Barに」のサンクで開いて、遺影の背景には100本を超えるボトルの棚・・・。

 更にそこに参加できなかった知人・友人たちに声をかけて、私の自宅
でも和田さん好みの『お別れ宴会』を開いたら、海外や遠方から老若男女
を問わず40名が駆けつけてくれて、祭壇はお酒が山盛りに。
 その上、和田さんが好んで出入りした銀座界隈の店のバーテンさんたち
が集まりお別れの会が開かれたそうで、呑兵衛冥利につきますよね~


<呑兵衛3.ある装丁職人の壺と茶碗で>


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うちで宴会に
使う日本酒の
道具類です。












 いつでしたか、今から20年ほど前になりますが、単行本の装丁をお願いしに、
2,3名である専門職人さんの店(兼住まい)を訪ねて行きました。
装丁済みの本がたくさん並べられており、かなりのセンスを感じたものです。

 打ち合わせが終わると『よろしければ一杯飲んでいきませんか』とお誘いを
受け、テーブルの上に、大きな壺と日本酒の一升瓶と、ご飯茶碗が並べられて・・・
「えっ?」と思いきや、目の前でこの壺の中に一升瓶がドドドド~っと。

 そして、彼は味噌汁の柄杓で壺のお酒をご飯茶碗に入れて 「ハイどうぞ!」
「あとはご自由にお好きなだけ」   「おおっ!」ですよ~ (笑い)
いろんな方々と大酒を飲んできましたが、後にも先にもこれ程の大きな道具は
経験できず、でもこの豪快さがすっかり気に入って、あれから自宅の宴会でも
写真のようにセットします。初回の皆さんはひきますが・・・(笑い)。

 実は装丁職人さんの大きな壺には話の続きがあり・・・。「この壺は大きさも
焼きも良いですねぇ。どちらの焼き物ですか?」とお尋ねしたら、
これ、自分の骨壺として僕が焼いたものですよ~」 (オオっ、素晴らしい!!)


<呑兵衛4.裕次郎はNHKでもグラス片手>

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 石原裕次郎が酒豪だったことはあまりに有名な話ですが、日活の青春
スターとして、裕ちゃんと飲み歩いた浜田光夫さんから直接伺った話ですと、
彼らは若くて元気な時代には、毎晩ウイスキーであれば一人でボトルを
2本空けるくらいの量を飲んでいたそうです・・・。

これも浜田さんからの話ですが、
 裕次郎のお酒はどこでも特別扱いだったそうですよ~ 映画や歌の収録
があると、事前に瓶ビールならダースで撮影所やテレビ局のスタジオに運び
込まれたとか。(1ダースの話ではないようですよ・・・)
 ある日、NHKでの収録が予定されているのに、裕次郎やスタッフが現れ
ない。どこに行ったのかと探したら、多摩川でBBQをしていることが分かり、
NHKは多摩川までヘリコプターを飛ばして飲んでいる裕次郎を迎えたそう
です。
 NHKがグラス片手に収録を許したのは唯一、裕次郎だけだったという
のは大物スター故のスペシャルなんでしょうね。

 こんな豪傑はもう見当たらないし、社会が例外を許さない傾向ですよね。
一律平等主義で人を選ぶこともなくルールを適用し、お利口を求めるから、
エリートが育たず、優れた素材でもドンドン小ぶりになってきている・・・。
人はみんな金太郎飴ばかりで、戻る答えもオウム返し。
日本の将来を考えると、どうなのかなぁとお思いになりませんか?






凛として・・三木睦子さんと


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1990年、南平台での
三木睦子さん(73歳)




 三木睦子さんが7月31日に95歳の生涯を終えられたとのこと・・・。
日本をパワフルに支えた巨星が又一つ落ちたという想いがあります・・・。

 1917年7月31日のお生まれなので、ピッタリ95年後に亡くなられた
ことになり、もしやご本人がカウントダウンをされていたのではと思える
ような命日です。

 昭和電工の創業者の次女に生れ (森コンツェルンのお姫様ですね)、
家柄が違うと言われながら1940年、後に66代内閣総理大臣になる
三木武夫さんと結婚。88年に三木元総理が亡くなるまで、内助の功を
超えた両輪で政治家の夫を支えた賢夫人として知られていますが、
自民党の中では左寄りとされた三木元総理に対して、睦子さんは更なる
「家庭内左派」だったとか。頭を垂れ、三つ指ついて「はは~」と従うだけ
の奥さんより、数段面白いですよね~

 ウィキぺディアで「三木睦子」を開くと、日本の政治運動家、社会活動家、
第66代内閣総理大臣 三木武夫夫人の順番で記載されており、
社会に向かって終生発言したファーストレディは別格ではないでしょうか。

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      三木睦子さんを
      ご自宅に訪ねて。
      帝国ホテル社長
      犬丸一郎さんと。










 今から22年前になりますか、私が生活提案誌「RELAXの編集人をし
ていた頃、人物紹介をする特集記事のインタビューのため、三木睦子さん
を南平台のご自宅にお訪ねした時の写真が、右上のものです。
 総理大臣経験者の私邸に伺ったのは、後にも先にもこの1回ですね~
(さすがに広い庭を背後に控えた豪邸で、睦子さんと犬丸さんが座って
おいでの応接間には10席以上の椅子が並んでおり、更に奥には会議用の
コーナーもありました。お偉い政治家は自宅の中でも会議を開くのですね)

 この時のインタビュー記事(バックナンバー)は今は見当たらないのですが、
睦子さんは犬丸一郎さんに連れられて行った初対面の私たちを快く迎えて
下さいましたね~。そして、2年前に逝去された三木元総理の思い出話や、
彼の遺志を継いで、社会のために行動していきたいといった趣旨の話と、
プライベートなこともざっくばらんに語っていただいたように記憶しています。
 言葉があの時代を生きた70代の女性とは思えないように明確で、誰にも
遠慮がなく、堂々として、前向きで・・・私好みの姉御タイプでしたね~

 写真にも映し出されていますが、凛とした存在感があり、きちんとお化粧を
した上でのファッションセンスも抜群で、そこはお育ちの良さと気品が漂って
おりました・・・。
(8月4日付の朝日新聞の記事で、作家の澤地久枝さんが昨年会った際も
94歳の睦子さんはハイヒールを履いていたそうですが、女優の岸 惠子さん
と同じく、年齢を超えて美しくありたいという心意気がご立派で憧れですよ~)
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  三木睦子さんは憲法改正を阻止しようと、9条を堅持する「九条の会」を
大江健三郎さんと共に呼びかけ人になったことは有名ですが、北朝鮮との
国交正常化のために平壌まで金日成主席に面会に行ったりと、その行動力
には脱帽ですよね。
女性の政治参加を進める活動にもご尽力されたようですし・・・。

 三木睦子さんとお会いしたのは人生のほんの一瞬ですが、見事な生き様に
対面して触れ合った経験は、自分の中で貴重な精神のDNAとなって流れ続
けているように感じられ、人生は人との出会いや交流が最高の価値かなぁと
改めて思います。

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<余談1ー犬丸一郎さん>

 三木睦子さんに引き合わせて下さった犬丸一郎さんは、その時、帝国ホテル
の社長でおいででした。
1926年生まれなので、現在は86歳におなりですが、当時は64歳でしたか・・。
中々の渋い二枚目でしたよ~
(帝国ホテル本館の3階に社長室があり、世界の一流品が並んでいました)

 慶応義塾大学を卒業して帝国ホテルに入社後は、清掃の仕事から始まり、
客室、調理場などホテルを支える現場の仕事を積み上げて、社長になった人
です。
アメリカの有名女優、マリリンモンローが宿泊した際にアテンドをしたとかで、
帝国には海外の有名人が訪れるから様々な物語がありそうですよ~

 そして、犬丸一郎さんを私に紹介下さったのは、今は亡き経済評論家の
高島 陽さんでした。最新トレンドを探検して歩く「耳よりの会」の主催者でした
が、野次馬の私がその会に参加していたご縁で、何かと手助けをして下さい
ました。どなたかのご縁で人を紹介いただき、更にお引き合わせいただける・・・
人生は玉突きみたいで面白く、楽しいですね~。

<余談2ー雑誌RELAX>

 雑誌に詳しい方はお気づきかもしれませんが、三木邸に取材に行った時
ミニコミ誌、RELAXはあの後で運命が大きく変わりました。     
 5年後の平成7年頃に、出版社のマガジンハウスから1本の電話が入り、
社長の木滑良久(きなめりよしひさ)さんが私のもとを訪ねて来られました。
そして、翌年マガジンハウスの「relax」としてメジャーデビューしたのです。
 木滑さんは、平凡パンチ、アンアン、ポパイ、ブルータス、hanako   olive
などを産んだ名編集長で、relaxを引き受けて下さったことは光栄でした・・。

 雑誌(商標)にも運命があるのですね~。
ただ今は休刊中ですが、木滑さんは会長となられ、現在も取締役最高顧問
で活躍中ですので、またいつか再デビューしてくれるといいなーと思います。

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三木睦子さんを
取材した当時の
RELAX
 







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        マガジンハウスから
        出版された relax





















プロフィール

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