熟女はご意見番

2012年09月

9.11と悠紀子ちゃんの思い出

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  2001年9月
  パリ郊外で
  二人の宴会




今日は9月11日。
 2001年の「9.11 アメリカ同時多発テロ事件」から、早くも11年の歳月

が流れましたが、NYの世界貿易センタービルの北棟と南棟が相次いで
飛行機に突っ込まれたあの場面は、今も鮮明に焼きついていますよね~
(改めて犠牲となられた3000人のご冥福をお祈りいたします・・・)


 事件のことに関連して、私には忘れがたい思い出があります。
予め、その10日後から、友人の悠紀子ちゃんと、フランスとイタリアの旅に
出る計画でツアーを申し込んでありました。

 9.11に世界中が凍りついた直後なので何せ飛行機が恐ろしくて、普通は
国内便も、ましてや海外なんて総キャンセルの時でしたよね・・・。
 どうしようか・・・なんて思っているうちに大手の旅行会社から電話があり、
「お二人を除いて皆さんキャンセルされましたので、ツアーは中止したいので
すがよろしいでしょうか?」と。

 家族も当然止めるだろうと思っていたようですが、普段は東京芸大の付属
高校でピアノを教え、自宅でも全国から受験の指導を求めてやってくる
受験生のレッスンプロだった悠紀子ちゃんは、「せっかく休みがとれたんだし、
次はいつ行けるかわからないんだから、絶対止めたくないよ~」。

 旅行会社から数回に及ぶ中止協力を求められたけど、最後まで「行きます」
を押し通して、とうとう2名だけのツアーが出発することに・・・。
2人の合言葉は「ビン・ラディンを捕まえに行こう!」でした(苦笑)。

 人影のない成田空港からガラガラの飛行機に乗り、2名の客に添乗員が
付いて、フランスでもイタリアでも大型の豪華バスには、ドライバーと現地の
ガイドと添乗員を入れると、お客2名よりスタッフの方が多い旅でしたね。
 空港を中心に世界中が厳戒態勢に入り、セキュリティが非常に厳しくなって
いたから旅行客には安心感があり、観光地も混雑がなくて悠々でした。

(ただし、帰国後に聞いた話では、外務省と大手旅行会社との情報交換の場
で断固キャンセルしないと言い張る旅行客がいて、大赤字でしたと話題にな
ったらしいです・笑い)

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    イタリアのレストラン
    でまたワインです・・






 

 冒頭の記事で「最善を尽くし一流に生きた・・」と過去形で書いたのは
10ケ月後の2002年7月13日に悠紀子ちゃんは急逝したからです。

 ご夫君が長い官僚生活を終えて、国の要職への就任が決まった記念
に、数年ぶりの家族旅行でフランス・スペインに出かけた帰路・・・、
パリ発の全日空機でシベリア上空を飛行中、急性心不全を起こし機内
で亡くなりました。
 
 音楽とピアノをこよなく愛し、若者が大好きでしたね~
東京芸大では安川加寿子さんのお弟子さんだったと聞いていますし、
小学校から東洋英和という深窓のお嬢さまながら、華やかなステージで
自ら演奏する道でなく、ピアニスト育成のために教師であり続け、更に
受験指導という地味で手間暇がかかる原石研磨の役割まで引き受けて、
全力投球をしていたのだと思います。

 大学や高校で教え帰宅した後は、夜まで受験生のレッスンをし、土日は
遠方から飛行機で駆けつける生徒もいて、年中休みなしが永年続いて
いたようです・・・。
 その合間に認知症らしきお母さまを介護し、家族の食事を作っていたの
だから、ホント、スーパーウーマンでしたね。

<最善を尽くせ、そして一流であれ>

 時折訪れる山梨県清里で「清里の父」と呼ばれるポール・ラュシュが残した
言葉に 「最善を尽くせ、そして一流であれ」 があります。

 Do your best and it must be first class

 悠紀子ちゃんはこの言葉に相応しい人生を凝縮して走り、一区切りの旅を
終えた時、神が十分頑張ったねと天に召したのでしょうか・・・。

<帰ってきたら又飲もうね・・から10年>

 私との共通点はお酒が良きストレス解消でもあり、それも女性には珍しく
豪快で楽しいお酒でした。
飲みっぷりでは私のボスだったかな~ 
それで、時折私は悠紀子ちゃん
の自宅に出張コックをして、その日の宴会はご夫君共々深夜まで・・・。

 2002年7月1日、彼女が家族とヨーロッパに出発する前日に電話で話し
「帰ってきたら又飲もうね」という約束だったのに、突然キャンセルされて
しまいました・・・。
 あれから10年経ちましたが、私は今でも彼女の「おーい、元気かな?」
という電話を待ち続けています。


 



若者に。マニュアル捨てよう

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雇用について新しい話題ですが・・・

 パート、アルバイト、派遣、契約社員、嘱託などの非正規雇用者が
昨年に続いて今年も35%に至っているそうですね・・・・。
1990年には20%だった割合が、ひたすら右上がりで35%に。
 特に20代前半の非正規雇用がこの20年で4倍になっていること
が深刻な大問題とされています。(15歳から24歳に絞ると47%。
20代 30代の生活保護が18万人は確かに悩ましい・・・)

 ところが一方、大学を卒業して正規雇用されても、その38%が半年
以内に退職し、転職するというデータがあります。

 今大学も親も何とか正規雇用にと願い、本人も最初につまずくと
お先真っ暗みたいに思っているようだけど、本当にそうでしょうか。

 すぐに辞める新卒が4割近くいるとしたら「何をしたいか以前に正規
雇用にこだわる」今の傾向から脱して、社会って何?、仕事って何?
自分の役割って何? なんて考えながら、現場の経験を増やすために、
身分はともあれ様々修行してみようと、ドライに割り切るのも悪くない
よと思うのです。人生長いから一時期「フーテンの寅」もいいじゃない。

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 先月、ある大学院に在学する(学部からそのまま大学院に進学した)
ストレートマスターの就職状況を把握し、どうサポートするかの会合に
出て、中々就職先が決まらない20代の現役生と話しました。

(以下、彼らだけでなく経験上感じとってきた全体への推察ですが)

 皆さん、お勉強はよくできるコースを歩いてきたように思うのですが、
仮に生真面目すぎる人は、面白い発想や企画にはその分遠いかなぁ・・。
私も会社の経営に10数年携わりましたが、グローバルに闘う時代には
「えっ?ナニ! おかしな奴・・・」と感じるような個性や特徴があった方が
正規雇用する必然性につながるように思えるのですよね~
(リクルートスーツに身を包んで、同じ表情で同じ受け答えをする人は

個人的にはNOに近い。意識が枠内に収まった人の仕事はアルバイト
で十分だと思えるからです・・・)

 もしかしたら、多くの人は必要以上に既存のマニュアルに拘り、自分
に囲いをつけることで安心しようとしているかもしれません。 
 また希望する仕事先の先輩に何とかコネを付けようなんていう貪欲さ
も、昔の我々に較べると不足気味かなぁ・・・。
 あと、志望と自分の能力のギャップを埋めるべく「能力の棚卸」とまで
はいかずとも、業界や企業や役所の何たるかのリサーチをするなどの
マッチング作業も不足している印象ですね・・・。
 下準備だけは自信を持てる水準までやりましょうよ! その上で自己
主張して、それを理解してもらえなければしょうがないなと忘れましょう。

 彼らと話し、またこの10年我が家に出入りした数百名の20代と接して、
今の若者は優しくて優秀な人が相当多く、ことITでは斬新な発想も豊富。
でも必ずしも自己PRできているとは限らないように映りますね・・・。

 だから性格や行動がやや消極的な傾向にある人たちに声をかけ、サポ
ートするなど世話をやくのは私たち大人の責任のように思えるのです・・・。
 「3丁目の夕日」のようなコミュ二テイが風化し、近所にはウルサイおば
さんもおじさんも姿を消したのですよね・・・。大きな財産を失いました・・・。

 子どもや若者は学力というメジャーで計測されてきたけど「生きる力」
の価値で見られることはなく、あとはマニュアル任せですか・・・・。
(正直、多くの教師も親もマニュアル化されていそうですから)

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 30年前から中国に10数回、韓国にも何度か行って感じるのですが、
最近の外交や尖閣・竹島問題で分かるように、特に中国人や韓国人の
人権感覚とか、国際感覚、マナーや品性を含め、日本と較べると民度が
低い傾向にあるのは肌感覚で感じてきました。(勿論人それぞれですが)
あとは教育の影響でしょうね。今どき反日みたいな偏見教育なんて?!

 でも、いずれも若い世代の眼はギラギラと貪欲に輝いていて・・・、
特に発展途上国から帰国するつど日本の子どもや若者の眼は死んで
いるなあと思うのです・・・・。 希望を持てないということでしょうか。
 今の時代は勉強とお行儀の良し悪しだけでは世界と闘うだけの人材に
ならないのではと思いますよ~
但し、中国や韓国もまたある種のマニュアル教育を受けていそうなので
いつかはマイナスの影響が国を揺るがすように感じますが・・・。
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 昭和39年に大ヒットした井沢八郎の「ああ上野駅」・・・・。

金の卵とあがめられ、農山村の中学を出たばかりの集団就職で上野駅
に降り立つ世代を歌った「高度成長時代の応援歌」ですよね。

 決して仕事の条件は良くなかった筈ですが、彼らには忍耐力があった
ように思うし、仕事先が零細会社でも、住み込みなどで社長やおかみさん
が生活の面倒をみながら指導してくれて、手に職をつけ、独立した人も
多くそれなりに安定した人生を歩んだのではないでしょうか。

 今は大半が大学を出るけれど、確かな能力を身につけるとは限らず、
それでいて、希望やプライドは大きくて・・・もう寄らば大樹の陰はないし、
生涯安泰もないということを、大人はもっと助言したいものですね。

 既存の古い価値観ではこの先を乗り越えられないことは確実でしょうから、
若者に伝えたいです。

『今までのマニュアルなんて捨てて、世界を相手にもっと自分を磨こう! 
「これだ!」を探せるまでは非正規でもいいんじゃないの? 
雇ってもらえないなら、自分で会社をつくり社長になればいいんだし…』






  

「長崎は今日も・・」の歌物語

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結成メンバー
の内山田洋と
クールファイブ






  映画「あなたへ」で高倉健さんは富山から長崎の平戸に辿り着きましたね・・・。
歌も人生と同じように、様々な人の想いが絡まり紆余曲折の旅をしているみたい
ですが、特に長崎と聞くと・・・・

 いつも思い出すのは1969年の大ヒット曲「長崎は今日も雨だった」ですね~
ー実に43年前に誕生した国民的愛唱歌ですが、私にとっても内山田洋さんの
思い出とともに特別な感慨がつまった歌なんですよ~

 今から15年前の1997年6月26日、東京湾の晴海埠頭から大型客船に乗り込ん
で香港に向かいました。6月30日の中国返還が目前に迫っていた時です・・・。
 6月30日の早朝に香港に着く予定で、英領最後のなごりを惜しみ、深夜0時に
英国旗のユニオンジャックが降りる歴史の瞬間をこの目で見たいなぁと。
 3日目に大型の台風が船を襲い、怪我人が出たりの事態になったのですが、
それはともあれ、船にはエンターティナーとして「内山田洋とクールファイブ」が乗船
しており、舞台で数々のヒット曲を聴かせてくれました。

 リーダーの内山田さんは演奏の冒頭でこんな話をしました。
「前川清が家出をしてから、もう10年になります・・・・。今も帰りを待ち続けています
が、まだ戻っておりません・・・」 寂しそうな表情でしたね~

 
 ご存じこのグループは元々は長崎市内のキャバレー「銀馬車」の専属バンドで、
そこに佐世保のナイトクラブで歌っていた前川清がメインボーカルとして加わり、
1969年に「長崎は今日も雨だった」でメジャーデビューをしています。
 12月には日本レコード大賞新人賞、そして紅白歌合戦に初出場とトントン拍子で
有名になったのですが、1987年に前川清が脱退してから、オリジナルメンバーが
一人二人と去っていき、香港に向かう船で歌っていたのは戻ってきた小林正樹さん
(写真⇒内山田さんの右後ろ)以外は、新しく加わった若者たちでした。

<船内で内山田洋さんに聞いた話>

 メジャーデビューをすることになったとはいえ、長崎では貧乏暮らしをしていた
から、6人で寝台特急さくらに乗って2日がかりで東京に向い、着いた先の借家は
雑魚寝をする狭い部屋でした。最初は食べ物にも苦労していました・・・。

 でも、「長崎は今日も雨だった」が爆発的に売れて大ヒットし、仕事に追われ
る一方、サラリーマンの初任給が3万円位の時代に、毎月、1人が100万円もの
大金を手にするようになると、自分たちの暮らしは狂い始めた気がします・・・。

 今思い出すだけで恥ずかしくなるような経験をして目が覚めましたが・・・。
雑誌の企画で、作家の五木寛之さんと対談することになり、港区の芝公園に
ある東京プリンスホテルに向かいました。
 私たちはあの有名な作家と対談するんだと格好つけて、派手な大型のアメ車
に(もちろん運転手付きで)ふんぞり返るように乗り着けました。

 しばらくお待ちくださいと言われ、外が見える場所で待っていると、
そこへ五木寛之さんが一人で車を運転して入ってきたのです。小さな車でした。
初めて自分の頭を殴られた思いがしたものです・・・・。

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 絶好調だったにも関わらず、このグループは人が変わり漂流し低迷していく。
内山田さんは様々な自戒を込めて、この話をしたのだろうなぁと思いますね~

9年後の2006年11月に内山田さんは70歳で亡くなっています。
(前川清が「家出」をしてから19年の歳月が流れ、最期まで会えなかったとか)

 けれど、その年の紅白歌合戦は前川清の呼びかけで、内山田さんの追悼の
ため、オリジナルメンバーが集結して「長崎は今日も雨だった」を歌いましたね。

 私はNHKのテレビに映る内山田さんの遺影に向かい「内山田さん、ようやく
前川さんも昔の仲間も
帰ってくれましたね~」と呼びかけました。

  本当はもう少し早く、ボスが生きているうちに歌ってほしかったけど、人は何か
の犠牲を払ってから、気が付くことが多いものでしょうね。
 (多くのメンバーは苦労をしながら生活をつないできたみたいです・・・)


<あの時、香港に向かう船の中で>
 
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 一時は覚悟をしたような大地震級の台風が過ぎ去った29日の夜、
内山田洋とクールファイブが乗客を集めて、歌のコンテストを開きました。

 まだ若く余力があった私は手を上げて40名程の中に参加し、バンド
演奏での持ち歌は、十八番の加藤登紀子『百万本のバラ』・・・。
 小林正樹さん(オリジナルメンバー)の審査で、予想外にも準優勝(2位)
でした。小林さんの評によると、「歌合格、衣装OK,そして僕のタイプ」と
いうもので(笑い)、そもそも優勝は真っ赤なスカートをはいたより若い女性
だったので、かなり怪しい審査ですけどね~(笑い)
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香港返還の瞬間ですか?
 台風の影響で船が入港したのは30日夜の7時過ぎ。街はカウントダウン
に入っていました。7月1日の午前零時、至る所でユニオンジャックが降りて、
中国の赤い旗がするすると揚った時、私は心の中で「さよなら香港!!」
と叫びながら、悲恋歌「百万本のバラ」を口ずさみました・・・・。
 直接には見えなかったのですが、返還の午前零時に中国の人民解放軍
が入ってきました。自由の象徴・英領香港が終わりを告げた瞬間です。
(国の統治が変わるのは、国旗と軍隊からということですね・・・)

 時折、テレビの歌番組で前川清を真中に小林さんが登場するつど、
「元気で歌い続けてくださいね・・・」と今も祈るような思いで聴いています。






プロフィール