10月5日
我が家に
上海から
のお客様
銀座や秋葉原から中国人が消えてしまった10月、我が家に上海から
親日派の鄭さんファミリーがやってきました。
写真で見るようにさわやかな家族で、右のご主人は元々日本の関西に
ある大学を卒業して、長らく夫人共々日本で暮らしていたので、言葉も
流暢で会話に不自由しません・・・。数年前までシンガポールで貿易の
仕事をして、今は上海に移り、高校1年生の南茜(あかね)ちゃん(中央)
と3人で生活し、鄭さんは同じ貿易の仕事をしているそうです。
今回の訪日は日本の大学への進学希望を持つあかねちゃんを、
「日本は中国で噂されているような国ではなく、親切で良い国だよ」と
実際の雰囲気を体験させることが第一の目的だったようです・・・。
上海では旅行社を含めて今日本に行くのは危険だという人がいて、
キャンセルが相次いだようですが、彼らは政治と個人的行動は別と
意に介せずJALに乗り込んだとのこと。
飛行機は乗客をカウントできる程ガラガラだったそうですが・・・。
あの激しいデモは「反日」というよりも中身は「反政府」が拡大応用され
たものというのが彼らご夫妻の見解でしたし、略奪や暴動を起したのは
それなりの人たちであったようです。
そして多くの日本人が感じているように、中国人もまたこのままの体制
では難しい、民主主義、国際協調、人権尊重などが望まれていることを
知的階層は意識しているのではと思いますね~ (推察ですが・・・)
私たちと和食を楽しみ、2日後には富士山の5合目まで登り、あかね
ちゃんは日本のアニメ制作に関心を抱いている・・・。「楽しい旅でした」と
上海からお礼のメールが。
こういう親日的な中国人が多くなってほしいけど、そのためには私たち
日本人も政治を超えた普段着の交流を図ることが大事でしょうね。
1984年3月25日
北京・人民大会堂で、
胡耀邦総書記(中)と
署名するうちの長女
尖閣諸島をめぐる反日運動に象徴されるように、日中関係は冷戦状態に
なっていますが、深く思い出すことがあるのですよ~
今から28年前の1984年3月に社団法人・東京青年会議所(JC)の主催で
国交回復後はじめて日本の子どもたち(東京JCメンバーの子弟である幼稚園
から大学生まで)84名を57名の大人が引率して、北京・上海・西安への訪中
をしました。
『日中友好少年少女の翼』です。各地に人民日報や中央電子台(国営TV)
の記者やカメラが付いて回る大騒ぎでしたが、その話はまた改めて・・・。
団長は(当時)東京青年会議所理事長の小坂俊幸さん・・銀座・小松ストアの
御曹司です。国交回復以来、青年会議所は中国から研修生を受け入れて、
技術や生産管理の習得に協力してきたので、胡耀邦(こようほう)中国共産党
総書記から招かれての訪中でした。
胡耀邦さんは、当時中国の最高指導者の地位にあり親日家で知られた政治家
でしたね。彼はその時68歳で、前の年に訪日し、国会で演説したほか、NHK
ホールで、日本の青年3000名を招待したいと語って、のち実現しています。
私たち141名は人民大会堂(日本の国会議事堂に当たる)に招かれて、
その際に、胡耀邦さんが「中日青少年永遠友好」と見事な筆文字で書いて・・・、
すぐ脇にいた私の長女真希納(まきな・小5)が歴史に残る大政治家の次に署名
しているという凄い光景です・・・(苦笑)。
でも日本の子どもたちに声をかけ、権威とは別の順位で署名を運ぶところが、
いかにも好々爺の印象ですよね~(胡耀邦さんの死去を学生が惜しみ、2ケ月
後の1989年6月に起きた「天安門事件」の引き金になったことが頷けます・・)
その後夕方から、人民大会堂で歓迎会が開催されて、その時の主催者が
今の最高指導者である胡錦濤(こきんとう)国家主席でした。
その時は中華全国青年連合会主席という肩書で、親日で民主化路線を歩もうと
していた胡耀邦さんの片腕だった筈ですが・・・。
皮肉なものですね。胡錦濤さんも私たちがお会いした際には「21世紀の中日
友好」を熱く語っていたのですが(手元に記録があります・・・)、
今回の反日運動の引き金は、今年9月9日に胡錦濤さんが野田総理とロシア
のウラジオストックで15分の立場話をして、「日本は事態の重要さを認識して
ほしい」と訴えたのに、帰国直後に尖閣の国有化を閣議決定したと・・・・。
30代から国の中枢にいて、2003年以来9年も国家主席の地位にある胡錦濤
さんと、つい最近総理の座に就いてまた1年交代しそうな野田さんでは、国家認
識や言葉の重さが相当に違うものなんでしょうね。
もう少し、相手のメンツを配慮すれば、ここまで冷え込まなかったのでは・・・と
思いますよ~ 勿論、中国の蛮行は許されず、野暮の際たるものですが・・・。
<胡耀邦(こようほう)> 1915~1989(73歳)
1982 ~1987まで中国共産党中央委員会総書記
チベットで政治犯の釈放や信教の自由を認めるなど改革派指導者であったが、
のち党幹部からの指弾を受けることに。
国民に「言論の自由」を保障したいと活動したが、「ブルジョア自由化」などと
批判され、1987年に総書記を解任されて事実上の失脚をした。
1989年4月、心筋梗塞で倒れて死去。追悼と民主化を叫ぶ学生や市民の
デモが広がり、10万人の騒動になったのがあの「天安門事件」であった。
私たちが訪中してからたった5年後のことですが、中国は28年後の今も民主化
を実現できていないのは実に残念なことですね・・・。