
吉田松陰は自らが幕末の巨星であり、命を懸けて日本を近代化に
導いた人であるが、新しい時代を築く「大物志士」を多数残している。
松下村塾・・・行ってみると言葉を飲むほどに狭く簡素な家屋の中で、
(それも寝食共にの寝泊りが10名もいて、食事を作りながらですよ~)
どのような教育をして逸材を後世に送り込んだのでしょうか。
彼は儒学者であり、兵学者でもあったが、身を挺することを自ら示す
実学の人でした・・・。
「志士たるものは天下国家の捨て石たれ」と語り、道義のためならどん
なに貧しい暮らしを送り、その遺体を溝や谷に捨てられても良いのだと。
更に
「忠というのは単なる志や目的ではない。それを具体的な成果として
表さなければ意味がない」として塾生や門人に行動を求めている。
松陰自身が全国をくまなく歩き、自分の眼で確かめて、藩や幕府の
役人を説得して歩いた。アメリカやロシアへの密航を企てたこともあり、
すべて命懸けだったことが若い塾生や門人の心を動かしたのでしょう。
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幕末から明治へと
歴史を動かした
塾の塾生・門下生
松陰は気性が激しい一面があるものの、根っからの勉強好きらしく、
「僕(学僕)は君たちの師ではない。同じ学友だ。共に学ぼう」という姿勢を
つらぬいていたようです。
だから、塾生に対して「諸君」ではなく、「諸友」とか「あなた」と呼びかけて
おり、教室の中でも一斉授業ではなく、各塾生の興味や関心に応じて
文献を選び、一対一の個人指導をしていた・・・。
しかも、監獄に入っていた時も、自分にはない学識や技術を持った囚人
がいると教えを乞い、教え教わるを交換し合っていたと記録されている。
松陰がこの世を去って150年も経ているのに、
「僕教える人、君たち教わる人」の固定観念はより強まっているのでは。
(戦後の焼け野原から立ち上がる時代には効率的だったでしょうが・・)
同じ役割分担の繰返しでは、人間同志の触れ合いによる化学反応と、
そこから発火する新しいエネルギーは期待できないのにね~
それも塾生の大半は10代でしたが、「鉄は熱いうちに打て」のごとく、
個性と能力に応じて個別指導をしていくと、子どもだからこそ伸びていく。
⇒その意味では「みんな同じ・競争NO」という日教組的な教育指導は
個性を許さず、真逆なことをしてきたように思いませんか?
それでは本気で命懸けの若いリーダーが育ちようがありませんでしょう。

長州ファイブと
言われる5名。
全員が20代
で英国に密航
留学して帰国、
明治の中核に
<歩むべき道を知らない・・・>
松陰はこんなことも言っています。
「武士である我々は、士道を修め、職責を全うし、国に報ずるべきであるが、
それらができている人はほとんどいない。何故できないかと言えば、歩むべき
道を知らないからだ。道を知るためには山鹿先師(素行)の教えを守ることだ。
※松陰は山鹿素行の「武教全書」を通じて、その士道観や、外国におもねる
風潮を廃し、日本に誇りを持つ国家観に強い影響を受けていた。
⇒武士を政治家に置き換えると、今の政治家が「士道、職責、国に報じる」を
とおに忘れ、我が身優先で右往左往していることと重なりますね~(苦笑)
松陰は早くから能力と意識のある若者に「歩むべき道」を考えさせて、
彼らに託し、瀬戸際に来た日本を救おうとしたのではと思います・・・。
意外なことに松陰は礼儀や規則を押し付けることなく、
心を通わせ、支え励まし合う集団の一体化をもって相乗効果で塾生が成長
することを優先させていたと松陰神社(萩市)の資料で書かれてありました。
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松陰の教育対象は大衆ではなく、分析力と考察力と解決策をもつ在野の
エリートでした。(身分には拘らずとも能力には拘ったし、競争させたのです)
そこは日教組の「みんなで同時に走り、一緒にテープを切ろう」とはまるで違う。
現代の「みんなでやろうね」とは「誰もやらない」と同じであることを、そろそろ
在野の私たちは意識する必要があり、大衆を牽引するエリートは必要でしょう。
そして、政界も役所も学校も、同じ顔をした金太郎飴の集団では、突破口を
開けないから、人材の流動性を高め異分子の登用も大事かなと思います。
松陰は自分にできることとして、周囲の英知をも巻き込みながら、
我が身を捨てて改革の種子(若い志士)をこの世に残そうとしていました。
本来の教育の原点がそこにあるように感じます・・・。
多くの結果を歴史に刻んだ方法をもう少し認識したいと思いますよね~