熟女はご意見番

2012年11月

松陰の英才教育は今と真逆

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    吉田松陰は自らが幕末の巨星であり、命を懸けて日本を近代化に
導いた人であるが、新しい時代を築く「大物志士」を多数残している。

 松下村塾・・・行ってみると言葉を飲むほどに狭く簡素な家屋の中で、
(それも寝食共にの寝泊りが10名もいて、食事を作りながらですよ~)
どのような教育をして逸材を後世に送り込んだのでしょうか。

 彼は儒学者であり、兵学者でもあったが、身を挺することを自ら示す
実学の人でした・・・。
志士たるものは天下国家の捨て石たれ」と語り、道義のためならどん
なに貧しい暮らしを送り、その遺体を溝や谷に捨てられても良いのだと。

 更に
「忠というのは単なる志や目的ではない。それを具体的な成果として
表さなければ意味がない
」として塾生や門人に行動を求めている。
 松陰自身が全国をくまなく歩き、自分の眼で確かめて、藩や幕府の
役人を説得して歩いた。アメリカやロシアへの密航を企てたこともあり、
すべて命懸けだったことが若い塾生や門人の心を動かしたのでしょう。

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      幕末から明治へと
      歴史を動かした
      塾の塾生・門下生





 
 松陰は気性が激しい一面があるものの、根っからの勉強好きらしく、
僕(学僕)は君たちの師ではない。同じ学友だ。共に学ぼう」という姿勢を
つらぬいていたようです。
 だから、塾生に対して「諸君」ではなく、「諸友」とか「あなた」と呼びかけて
おり、教室の中でも一斉授業ではなく、各塾生の興味や関心に応じて
文献を選び、一対一の個人指導をしていた・・・。

 しかも、監獄に入っていた時も、自分にはない学識や技術を持った囚人
がいると教えを乞い、教え教わるを交換し合っていたと記録されている。
 
 松陰がこの世を去って150年も経ているのに、
「僕教える人、君たち教わる人」の固定観念はより強まっているのでは。
(戦後の焼け野原から立ち上がる時代には効率的だったでしょうが・・)
同じ役割分担の繰返しでは、人間同志の触れ合いによる化学反応と、
そこから発火する新しいエネルギーは期待できないのにね~

 それも塾生の大半は10代でしたが、「鉄は熱いうちに打て」のごとく、
個性と能力に応じて個別指導をしていくと、子どもだからこそ伸びていく。
その意味では「みんな同じ・競争NO」という日教組的な教育指導は
 個性を許さず、真逆なことをしてきたように思いませんか?
 それでは本気で命懸けの若いリーダーが育ちようがありませんでしょう。

 
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長州ファイブと
言われる5名。
全員が20代
で英国に密航
留学して帰国、
明治の中核に











 <歩むべき道を知らない・・・>

松陰はこんなことも言っています。
 武士である我々は、士道を修め、職責を全うし、国に報ずるべきであるが、
それらができている人はほとんどいない。何故できないかと言えば、歩むべき
道を知らないからだ。道を知るためには山鹿先師(素行)の教えを守ることだ。

松陰は山鹿素行の「武教全書」を通じて、その士道観や、外国におもねる
 風潮を廃し、日本に誇りを持つ国家観に強い影響を受けていた。

武士を政治家に置き換えると、今の政治家が「士道、職責、国に報じる」を
 とおに忘れ、我が身優先で右往左往していることと重なりますね~(苦笑)
 
 松陰は早くから能力と意識のある若者に「歩むべき道」を考えさせて、
彼らに託し、瀬戸際に来た日本を救おうとしたのではと思います・・・。

 意外なことに松陰は礼儀や規則を押し付けることなく、
心を通わせ、支え励まし合う集団の一体化をもって相乗効果で塾生が成長
することを優先させていたと松陰神社(萩市)の資料で書かれてありました。

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 松陰の教育対象は大衆ではなく、分析力と考察力と解決策をもつ在野の
エリートでした。(身分には拘らずとも能力には拘ったし、競争させたのです)

 そこは日教組の「みんなで同時に走り、一緒にテープを切ろう」とはまるで違う。
現代の「みんなでやろうね」とは「誰もやらない」と同じであることを、そろそろ
在野の私たちは意識する必要があり、大衆を牽引するエリートは必要でしょう。
 そして、政界も役所も学校も、同じ顔をした金太郎飴の集団では、突破口を
開けないから、人材の流動性を高め異分子の登用も大事かなと思います。


 松陰は自分にできることとして、周囲の英知をも巻き込みながら、
我が身を捨てて改革の種子(若い志士)をこの世に残そうとしていました。
本来の教育の原点がそこにあるように感じます・・・。
多くの結果を歴史に刻んだ方法をもう少し認識したいと思いますよね~







人材群生の萩・松下村塾とは

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国指定史跡の
松下村塾
(山口県萩市)




 衆議院選挙の公示が迫っているが、目まぐるしく出没する政党や政策チームや
まるで就職活動みたいに出入りする新旧の議員たちに、この国はどこへ向うのか
と不安を感じるのは、私ばかりではないでしょうね・・・。

 そんな中、自分の立ち位置と何某かのお役目を見出そうと、山口に向かった
最終目的は萩の松下村塾で、吉田松陰の魂に触れることでした。

 司馬遼太郎が「世に棲む日日」の中で吉田松陰を「討幕の起爆剤となった長州藩
の思想をつくった男」と称していますが、司馬がもう一人「幕末の奇跡」と呼んだのが
坂本龍馬ですね。いずれも討幕が迫る時代に、30歳になるかならないかの若さで
命を落としています。

  吉田松陰(1830~1859)長州藩
   坂本龍馬(1836~1867)土佐藩
 で、23年間は同じ時代を生きたけど
 二人が出会ったという証明は見当たらないみたいですね~

 キャラクターもめざした社会も随分違うようで、両人ともに明治維新の立役者
ですが、明治から大正、相和初期までの約70年間は松陰が路線を引いた国家
主義により国が隆盛したが、やがて戦争に突入します。

 戦後の高度経済成長は自由人だった坂本龍馬の理想だったという説もあり、
現在に至っては、終戦から約70年が経過しました。
 双方70年は偶然かもしれませんが、いずれにせよ、既存の政治・経済システム
に限界が及び、刀を持つ志士の時代であれば討幕が起きるように思いますよね。
でもなぜか、そこまで本気の志士(今なら政治家か)はどこにもいない・・・。
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<松下村塾とは>  1842年(天保13)~ 1892年(明治25)

 松陰の伯父に当たる玉木文之進が松本村(萩)の自宅で私塾を開いたのが
始まりで12歳の松陰も入塾した。
松陰が下田にきた米艦隊に頼もうと密航を企てて失敗。投獄され実家での蟄居の
際、1856年、26歳で近隣の子弟に「孟子」(BC300年)を教え、松下村塾を主宰
したことで人が集まった。
 1859年に松陰が江戸送りとなって、江戸で刑死してから塾生が離れ、自然消滅
したが、1862 年以降久保清太郎などが講義をし、明治に入り玉木文之進が再開、
更に杉民治が1880年(明治13年)から教えたが、1892年(明治25年)に杉が
女学校の校長に就任と同時に閉鎖され50年の幕をおろした。

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         松陰が江戸送りの前に
         塾生で画家の松浦松洞
         が描いた肖像画
        (写真は残されていない)
 
          







<人材は群生する>

 松陰が村塾で講義をしたのは僅か1年余りで、寄宿や通学を含めて1858年
現在で36名の武士や医者、足軽が在籍し、個別指導を受けていたようだ。
 半分以上が10代で、今風に考えると中学・高校の一貫教育みたいなもの
だが「人材は群生する」といわれるように、討幕や明治維新の中核となる多数
の志士や政治家を生んだ。(年齢は松陰28歳時に教えていた1858年で記載)

 高杉晋作(20歳) ⇒討幕の戦いを勝利に導く。肺結核で死亡(28歳)
 久坂玄瑞(19歳) ⇒尊王攘夷運動をして禁門の変に南下して自刃(24歳)
 伊藤博文(18歳) ⇒兵庫県知事、初代内閣総理大臣
 山縣有朋(21歳) ⇒軍政改革、2度の内閣総理大臣
 品川弥二郎(16歳)⇒討幕運動、ドイツ公使、内務大臣、獨協大学の創設
 前原一誠(25歳) ⇒討幕運動、萩の乱で斬首される
 吉田稔麿(18歳) ⇒松陰門下の3秀の一人。池田屋事件で自刃(24歳)
 山田顕義(15歳) ⇒司法大臣、日本大学・国学院大学の創設

 (塾生ではないが門人として交流)
 木戸孝允(24歳)(桂小五郎) 
                                 ⇒廃藩置県、四民平等、憲法制定、三権分立、文部大臣
 井上 馨(23歳) ⇒26歳で英国に密航留学、外務大臣・内務・大蔵大臣
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松下村塾の内部
八畳と十畳半で
数十名が学んだ
(松陰は寝泊り)





<吉田松陰とは、その人物像>

 1830年(天保1年)に山鹿流兵学を家学とする下級武士の杉家に次男として
生れ、のち吉田家の養子となった。
 12歳の頃から儒学を学び、15歳頃には藩主の毛利敬親(たねちか)に孫子
や兵学の講義をできる能力を備えていたらしい。同時に十代で迫りくる外国の
圧力に対して国防を考えており、20歳になると藩命で海岸防備の実情調査に
参加している。

 22歳で手続きをしないまま脱藩状態で東北を旅し、24歳で諸国を回り、
ペリーが米国艦隊と共に下田に来た際は、アメリカに渡ろうとして失敗した。
そのために江戸伝馬町の獄に入れられたが、萩の野山獄に送られても、
そこで孟子などの講義を続けており、杉家での幽閉期間もやめることはなく、
1857年(安政4年)から58年にかけての松下村塾が最盛期だった。

 やがて松陰の尊王攘夷運動が危険視されて、1858年の暮に再び野山獄に
入れられ、5月には江戸送りとなった。
老中・間部要の殺害を企てた容疑で10月27日に処刑された。(数え年30歳)

 もともと萩の藩主毛利家は関ヶ原の戦いに敗れて以来、8ケ国を奪われ、
減封されて萩に追いやられたのだが、学問に造詣が深く、優れた人材の教育
に熱心だったそうだ。実家の杉家も松陰が幼少の頃から勉強をさせており、
松陰は「萩(松本村)を有能な人材の都にして、長州を変え、日本を変えよう」
と考えていたらしい。その意味では
 鋭敏な時代認識ができた思想家であり、革命家であり教育家であった。
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<時代認識とエリート教育>

 幕末という今とは相当背景が違うのに、松陰の時代認識は現在も通用する
点が面白い。
⇒「今の幕府も諸大名も国家の独立を維持する力がない。だから、民間から
  立ち上がる人を望む以外は、頼りとするものがないのだ」
 
 つまり、松陰は徳川幕府や長州藩の「組織」に絶望しており、その組織に
属する役人にも不信をいだいていた。
官途についている人間(公務員)たちはOUT. 「在野の遺賢」※に期待しよう!   
 「在野の遺賢」とは、野にあってそれぞれの主体性をもった志ある存在をさし、
 「公衆」と表現するエリートであり、インテリのことで、一般的な大衆ではない。
 
※松陰が言う「公衆」は情報の分析力、問題点に対する考察力、自分なりの
  解決策を設定できる能力の持ち主。付和雷同派の「大衆」とは区別している。

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松陰の「尊王攘夷」とは・・・
 
 松陰は尊王攘夷を唱えていたが、それは鎖国を意味するものではなく、
開国して西洋の優れた技術を取り込んで、日本に力を付けて西洋に打ち勝とう
と考えていた。

 結果、幕府が倒れて天皇親政で開国し、文明開化と富国強兵、殖産興業が
進んだことは、松陰が考えた未来路線そのものだったといえそうだ。









旧友と紅葉映える山口の旅

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紅葉に映える
国宝瑠璃光寺
1442年(室町)
(山口市)





 思うところあって、11月16日に羽田空港から山口宇部空港に飛び、
山口県の湯田温泉に行きました。羽田から正味1時間半ほどの飛行。
あっという間に本州の遠き地に降り立ちました。

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           素敵なご夫婦の
           写真なので小さく
           掲載させてね~







 わざわざ広島から車を走らせて出迎えてくれたのは、ドクター暁さん・千明さん
のご夫妻です。暁さんは脳神経内科の専門医で、山口の出身ですが、今年の
3月まで国立HPの病院長をされていました。今も現役で頑張っています。
20代、紅顔の美少年の頃からの知り合いで、早い話、飲み友だちなんですよ~
まあ、最近は私の方が飲めるかな・・(笑い)。

 千明さんは私と同じ長野県の出で、様々な舞台で活躍するピアニストです。
2年前、東京で私が主催した「歌声レストラン」(コンサート)では即興に近い形で、
多くの伴奏をして下さり、その実力に感動し、脱帽しました。

 20数年前に家族で旅行して以来、久方ぶりの山口県ですが、2日間、暁夫妻
のナビゲーターにより、山口界隈の名所旧跡を見て回りました。

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明治維新の
史跡・枕流亭
(山口市内の
 香山公園)






 幕末に土佐の坂本龍馬の奔走で、薩摩と長州連合の話し合いが進められ、 
慶応3年(1867年)9月に、この家屋に両藩士が集まって、討幕軍の結成が
図られたという密議の場所です。(わくわく)
 
 薩摩から西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、大山格之助が訪れたのに対し、
長州から桂小五郎(木戸)、広沢真臣、伊藤博文、品川弥二郎らが出迎えて、
明治維新のあけぼのを作ったとされる記念すべき建物。趣がありますね~
中は大変狭いですが、密使か忍者になった気分です・・・。

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            湯田温泉にある
            中原中也記念館
            にて









 中也のこの写真は有名ですが、思わず「可愛いい~!」と叫んでしまい
ました。(苦笑) 現代でもジャニーズ事務所OKのイケメンですよね~
1907年(明治40年)~1937年(昭和12年)の詩人・歌人ですね。
詩集の「山羊の詩」(1934年)や「在りし日の歌」(1938年)が代表作ですが、
「ランボウ詩集」の翻訳でも知られています。

 26歳で結核性脳膜炎で死亡しましたが、長男・次男共に2歳で失うなど、
明治から昭和初期にかけては、不治の病が多く、短命だったんですね~
天才肌のこの青年が中高年まで生存したら・・・と思うと残念です・・・。
  

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秋芳洞の百枚皿
(美祢市)






 数十万年前から出来上がってきたという日本最大の鍾乳洞ですね。
観光ルートとして整備された約1キロメートルを片道45分位で歩きます。
壮大な光景に感嘆するとともに、年中17℃前後に保たれているそうで、
自然の偉大さには脱帽としかいいようがありません・・・。

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     生家を復元した
     金子みすゞ記念館
     で(長門市)








金子みすゞ・・1903年(明治36年)~1930年(昭和5年)
 昨年の3.11の直後にTVのCMで「こだまでせうか」が一日中流されて
改めて有名になった童謡詩人。西條八十から巨星と呼ばれながらも
不幸な結婚の果てに淋病をうつされて人生の期限が近付く中、離婚話
を進めつつ一人娘の親権を巡って(抗議で)自ら生命を絶ちました。
当時、女性には親権がなかったのです・・・。26歳の若さでした・・・。

 記念館は実家のあった「上山文英堂」(書店)を復元してみすゞの部屋
や当時の雑誌・本類と共に公開されています。
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 中原中也、金子みすゞ。
二人ともに30歳になるかならないかの若さで逝去。
そんな短い人生の中で、中身の濃い作品をたくさん残したんですよね~
 彼らに較べると、私は随分長く生きているのに、例え財産を残しても
記念館を開くだけのコンテンツがありません(笑い)。
 今からでは到底間に合いませんかねぇ・・・? (苦笑)
 
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 初日は暁さん夫妻と湯田温泉に泊まりましたが、
夜は従兄弟さんの大平ご夫妻と一緒に地元のふぐ料理を頂戴し、地酒も
堪能させていただきました。長州の逸話もたくさんお話しいただき、この地
がなぜ明治維新のさきがけを築いたのか謎がすこしづつ解けてきました。
江戸から遠く離れた南の土地で、海の幸、山の幸に恵まれ、幕府の眼を
逃れ、密貿易もできるなど余裕があったということでしょう。
そこに長州人の魂あり!・・・ですね。

⇒2日目のメイン、
 萩の松下村塾と吉田松陰の足跡はこの続きをお楽しみに!







公共経営流 「面接の王様」

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このコラムは、現役学生
への就職支援の活動で、
面接について助言した
ことをまとめたメモです。




<はじめに>

  面接試験というとドキドキしますが、柔らかくいえばインタビューであり、
 もう少し気軽に考えると結婚の「お見合い」と同じでしょうね~
 だから、面接を受ける側も相手を選ぶ場を与えられたと考えましょう。

 かくいう私の助言のベースですが、
 東京都庁で1万人の労務、人事制度、研修・評価などを10年以上経験
 して延10万人を見つめ、民間企業で総務部長、専務、代表取締役として
 採用と選考にあたってきました。
 もちろん私自身も何度かの面接を受けてきた経験談を踏まえてです・・・。

※面接の指南書は本やネット上でたくさん入手できると思いますので、
 このコラムでは既存のマニュアルを参考にせずオリジナルで考えました。

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採用担当は何を観察するのでしょう



①予め提出されたエントリーシートなどを本人との直接会話で内容を確認し、
 大学や大学院の専攻・論文と社会に出てからの意思、エントリーしてきた
 就労希望先(事業分野)とにおいて、一貫性や関連性が認められるか。
 (曖昧で行き当たりばったりな人は長続きしないから避けたいと考える)
②役所も企業も受け継がれた雰囲気や伝統的なカラーがあるから、勉強
 面での能力があればそれでOKというわけではありませんよ~
 志願者のキャラクターが全体のチームカラーに沿うのか。そのための
 コミュニケーション能力、表現力は大丈夫か。
③採用後のしばらくは、役所にも企業や団体にとっても素人だから、育成の
 必要があるが、突っ張らずに能力が伸びていくポテンシャルがあるのか。
 (成長過程での素直さはとても大事に考えられているでしょうね)

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相手をよ~く知ってから行きましょう



①今はPCで何十ものエントリーシートを簡単に提出できるようですが、
 いざ、面接となった際は、相手の沿革、事業内容、規模、経営方針、
 トップのプロフィールや採用方針はきちんと調べてから臨みましょう。
 簡単な会話でも自社のことを念頭において回答しているか否かは採用
 担当にはすぐに分かるものです。(相手はプロですからね~)
②会社案内やホームページはフォーマルな表現で良いことづくめのこと
 が記載されています。現実的には表と裏があるかもしれません。
 「本当はどうなの?」についての本音部分はOBやOGを訪問して聞いた
 方が(規模を縮小しているよなど)リスクを避けることができますよね。
(もし卒業生の推薦が可能であれば)
 相手企業にとって信頼できるOBOGの推薦は安心感が生まれますし。

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自己アピールをバランス良く



①自己紹介や応募の理由を求められたら(先方の指示にもよりますが)
 1~2分でシンプルに、でも濃い目の内容でハキハキと答えましょう。
 相手の眼を見て、こわばらず微笑みを浮かべる余裕が欲しいですね。

 見合いと同じだから、好感度を高めて気に入ってもらう努力は大事
 ですからね~
②自分の性格のプラスとマイナスはセットになるでしょうから、
 例えば「表舞台で主役になれるタイプではありませんが、脇役として
 縁の下の力持ちには向いており、地味な仕事でもコツコツと責任を
 もってこなせることには自信があります」と言うと、「おっ!こういう人が 
 欲しいよね~」となるかもしれません・・・。
③応募の理由やいきさつは結論から明確に。
 結論を最後にして前提をダラダラ話すことは、聞き手にイライラ感を
 与え、「何を言いたいのか、分かりにくいやっちゃなぁ」で終わってしま
 いがちですよ~
④学校(学習)以外の活動実績も大事な評価対象になると思います。
 大震災でのボランティア、サークルでのリーダー経験、体育会での大会
 出場歴と順位、NPO・NGO活動、趣味などについて、仕事でもかくかく
 生かせますなどと繋げながら説明しましょう。
⑤こちらからも採用担当者について何歳ぐらいかなー、固いか柔らかい
 か、神経質か大らかか、理論派か現場重視かなどを見極めながら
 その人にあわせて回答できると余裕ありですね。
 採用担当が理不尽で合わない場合や威圧的な場合は、そんなところは
 やめちゃいましょう!(笑い)

 
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マナー・服装・髪型など



①就職させてほしいとお願いをする立場だから、礼儀正しくは当然のこと
 ですが、緊張のあまりオドオドするのは(相手も緊張させる分)マイナス
 になりますね。 「平常心で」面接も楽しみましょうよ!
②個人的には、頭からつま先までリクルートルックに身を包んだ人の群は
 苦手ですが、グレー系のスーツを着るとか、Yシャツやブラウスに薄めの
 色がついても、そんなことは殆どマイナスにならないと思いますよ~
 キラリ光る個性の演出ができたら、(ひたすら「皆なと同じ」に拘る人では
 創造力に期待できない)オリジナルなセンスが買われると思いますが・・・。
③外資系は事前にチェックを入れた方がよろしいかもしれません。
 日本人の同じ表情、同じ受け答え、同じ服装、集団行動は「まるで軍隊」
 と欧米人から見られる傾向にありますから。
④髪型やお化粧は常識の範囲でお考えください。まずは清潔感でしょう。

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その他、こんな発言は慎重に



①私が採用側で面接をした際に、「入社したら何をしたいですか?」と聞くと、
 「企画をさせてください」と答える人が何名もいたのですが困りものですね~
 企業でもどこでも事業展開をするところだから、入って間もない新人が
 思いつきで簡単にできる仕事ではないのです。
 マーケティングリサーチで市場があるかを調べ、人件費を含むコスト計算
 をして利益を割出し、作業の行程とタイムスケジュール、チームの編成、
 在庫の扱い、流通、宣伝までを考えた収支の計算など・・・何年いても出来
 ない人がいるような難所の世界なので、簡単に口に出すのは(軽い印象を
 与えるので)やめた方がいいでしょうね。
②同じように、役所の面接で 「街起こし、地域起こし」と簡単に発言すること
 は「夢見る夢子さん」と思われがちなので、慎重にした方がいいことも。
 街起こしも地域起こしも、本来の目的は地域経済の活性化なので、商売
 っ気や営業能力を求められる課題です。役人には最も苦手な領域ともいえ、
 予算が許せば、コンサルに依頼する傾向にありそうです。

※但し、地方の事情によりますが、役所にネットワークや情報が集まっている
 所では、地域再生が役所頼みということもありそうなので、ご自分の志望先
 に応じて、嗅ぎ分けてくださいね。


※そもそも公務員は3年位で全く別の分野を異動するから、「これをしたい」
 と望んでも続けられない事情もありますので、この辺りは念頭に・・・。
※国の省庁や東京都庁などの大官庁は専門分野が幅広いので、例えば福祉
 や医療、都市政策など同一局内での異動が多く、平均的な自治体よりも
 専門性が重視されるように思います。役所にも規模により差がありますね・・。
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これらが少しでもお役に立てれば嬉しいですよ~
 では、ご武運を祈ります。希望の道へGO!! 






日教組委員長と話してオオ!

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11月13日
早稲田大学
の大隈記念
小講堂にて



 何年か前から早大メディア文化研究所の招聘研究員となっており、その中での
公共ネットワーク研究会というところに所属して、ゲストやメンバーの御説を有難く
拝聴しています。その研究会が13日に、初のシンポジウムを開き、タイトルは
「ともにつくる『公共サービス』」でした。
 
 パネリストの本田由紀さん(東大大学院教育学教授)は、修論を書くときに文献
を多々読んだので、生の本田さんの話を最も興味深く伺いました。

 詳細はともあれ、次のことがらに「そうだ!」と感じたものです。
①公共性の最小条件とは、自由(自律・多様性)と保障。
②「幸福の形」を一つに決め、そこから外れた生き方がきわめて苦しくなるような
 社会はもうもたない。
③人が固く囲い込まれてきた状態を脱して「雇用の流動性」を高める。
 それはメンバーシップの採用ではなく、必要に応じて個人のイニシアティブで動き、
 jobを基軸に人が働くような「フレックススペシャリティ」が重要になる。

 ※特に③は私が手元で運営を再開した私塾の中で「非連続のジャンプ」ができる
  若者を育てたいという方針と本質が重なると感じ、「やったね~」と思いました。
 ※本田さんの他には、地域活性化の専門家や、あしなが育英会の関係者などが
  パネリストとして参加され、汗を流した経験談を聞いて参考になりました。

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で、話はここからです。

 当日のゲストや研究員や関係者による懇親会があって、その後二次会があり、
誘われるままについて行ったのですが、パネリストの一人が日教組委員長であり、
連合の副会長(教育分野担当)を兼ねているという偉いお方も一緒で、気が付くと・・
周りの御用学者、御用役人、御用商人らしき(そう見えた)揉み手チームの中に
取り巻かれていました。オオ!(苦笑)

 日教組・・日本教育労働者組合。
公立小学校・中学校の教師を中心に、高校を含めた加入者は約29万人。
かって1958年(昭和33年)には86%が加入した時代と較べると最近は21%程度
の加入と激減し、現在の加入者は対象教員数の28%とのことです。

 連合は今の民主党を支える母体で、輿石東・幹事長は神奈川教組の出ですが、
そぉ~、彼のイメージですね・・・。 その日教組とは何を考えているのか・・・。

戦後の動きをちょっと調べてみると・・・・
 ①能力主義教育反対
 ②教員の勤務評定反対
 ③全国統一学力テスト反対
 ④日の丸・君が代反対
 ⑤学校5日制とゆとり教育提唱と推進   

⇒要は「みんな一緒、評価NO」の教育を進めてきたことは間違いないようですね。

しかも連合を支え、それが政党の母体となるという意味で政治色が濃くて、あの
3丁目の夕日の時代にいた先生ー聖職からは程遠いブルーカラー(労働者)と
なったのでしょうか。
まあね、日教組の加入が5分の1に激減したことがせめてもの救いかなぁ。
 
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  すぐ斜向かいにいらした委員長に「公立学校はこのままで良いのか」など
素朴な質問をしてみたのですが・・・、「やっぱりね~風評違わぬ、日教組!」
以下は委員長と、大きく頷き手を叩いていた御用グループのご見解です。

①子どものうちから私立の学校へ行くのは間違っている。
 公立小中学校の教育が理想で、もし学級崩壊があるとしたら親が悪い。
②私学は似たような条件の人ばかりが集まっているが、社会はそんなものでは
 ないから、公立で雑多な人と関わり、揉まれることは良いことだ。
③教師は専門家だ。外部の人間が学校に新しい風を入れる必要はないし、
 このままで問題はない。教師は世の中に疎いって? 民間会社の人だって
 世の中を知らないじゃないか。

 私にしてみれば(都心だから選択条件や学習環境は地方と違うものの・・・)
3人の子どもを小中学校から公立も私立も国立附属もさまざまに経験し、
PTAの役員も毎年のように引き受けて、長所短所も特徴も実体験してきたか
らこそ、公立への関心も、発言の根拠もあるのだけど、委員長や賛同者たち
は小中からの私学や国立附属がどうであるかの経験は(多分)ゼロにして、
でも頭ごなしに否定し、「公立の現状が正しい!教師はみんな優れている」と
断定する姿勢にはある種の怖さを感じましたね~

 私が主張したかったことは・・・
①小学校から学校の選択の幅は豊富にあって欲しい。小中学校から私学に
 行こうが、公立に行こうが親と子の自由裁量であり、家庭の教育方針だろう。
②幼少期の受験は有名校志向とは限らない。のちの感受性豊かな時期の
 受験がなくなり、教育理念の明確な学校でゆっくり学べることは、個性や友情
 など人間性の向上にプラス条件が多いし、親子代々母校をもつ家庭も多い。
②教師の職業的流動性を高めて、地域の様々なキャリアを持つ人たちが公立
 学校を支えていく。これがコミュニティの再生につながるし、本田由紀さんが
 主張した「フレックススペシャリティ」と本質は同じものと考える。

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       論文の目次から一部
       カット代りに切り抜いて
       囲みの色を付けました。









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 私の修士論文は「公立学校のリバイバルプラン」で役所の白書や官民のデータ
解析をし、公立学校の教員・校長、教育長や政治家などへのインタビューにより
制度の課題や問題点を抽出、親と教師の意識調査、また、ゆとり教育による学力
の低下(1958年と較べて数字上の学力は3分の1)も確認した結果、政策提言に
至るとりまとめをしてきました。
 でも、新たな発想は日教組など中央集権の権力機構には全く伝わらないようで、
日本の公立学校の再生は彼らが政治的に動く限りはお寒いですね~ 
このままでいくと日本の産業的創造力は世界の50番目位に落ちていくとか・・・。

 個人的な話ですが、これまで海外に120回以上出て学校訪問も相当しました。
NGOによるボランティア活動も含めてアジアや南米、北朝鮮に至る発展途上国も
多かったのですが、貧しくても子どもたちの眼がキラキラと輝いている。
 いつも帰国して感じることですが、日本の子どもや若者は眼も表情も暗く沈んで
ロボットみたいに映るのです。この現状を彼らはどう説明するのでしょうか・・・・。








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