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国指定史跡の
松下村塾
(山口県萩市)




 衆議院選挙の公示が迫っているが、目まぐるしく出没する政党や政策チームや
まるで就職活動みたいに出入りする新旧の議員たちに、この国はどこへ向うのか
と不安を感じるのは、私ばかりではないでしょうね・・・。

 そんな中、自分の立ち位置と何某かのお役目を見出そうと、山口に向かった
最終目的は萩の松下村塾で、吉田松陰の魂に触れることでした。

 司馬遼太郎が「世に棲む日日」の中で吉田松陰を「討幕の起爆剤となった長州藩
の思想をつくった男」と称していますが、司馬がもう一人「幕末の奇跡」と呼んだのが
坂本龍馬ですね。いずれも討幕が迫る時代に、30歳になるかならないかの若さで
命を落としています。

  吉田松陰(1830~1859)長州藩
   坂本龍馬(1836~1867)土佐藩
 で、23年間は同じ時代を生きたけど
 二人が出会ったという証明は見当たらないみたいですね~

 キャラクターもめざした社会も随分違うようで、両人ともに明治維新の立役者
ですが、明治から大正、相和初期までの約70年間は松陰が路線を引いた国家
主義により国が隆盛したが、やがて戦争に突入します。

 戦後の高度経済成長は自由人だった坂本龍馬の理想だったという説もあり、
現在に至っては、終戦から約70年が経過しました。
 双方70年は偶然かもしれませんが、いずれにせよ、既存の政治・経済システム
に限界が及び、刀を持つ志士の時代であれば討幕が起きるように思いますよね。
でもなぜか、そこまで本気の志士(今なら政治家か)はどこにもいない・・・。
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<松下村塾とは>  1842年(天保13)~ 1892年(明治25)

 松陰の伯父に当たる玉木文之進が松本村(萩)の自宅で私塾を開いたのが
始まりで12歳の松陰も入塾した。
松陰が下田にきた米艦隊に頼もうと密航を企てて失敗。投獄され実家での蟄居の
際、1856年、26歳で近隣の子弟に「孟子」(BC300年)を教え、松下村塾を主宰
したことで人が集まった。
 1859年に松陰が江戸送りとなって、江戸で刑死してから塾生が離れ、自然消滅
したが、1862 年以降久保清太郎などが講義をし、明治に入り玉木文之進が再開、
更に杉民治が1880年(明治13年)から教えたが、1892年(明治25年)に杉が
女学校の校長に就任と同時に閉鎖され50年の幕をおろした。

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         松陰が江戸送りの前に
         塾生で画家の松浦松洞
         が描いた肖像画
        (写真は残されていない)
 
          







<人材は群生する>

 松陰が村塾で講義をしたのは僅か1年余りで、寄宿や通学を含めて1858年
現在で36名の武士や医者、足軽が在籍し、個別指導を受けていたようだ。
 半分以上が10代で、今風に考えると中学・高校の一貫教育みたいなもの
だが「人材は群生する」といわれるように、討幕や明治維新の中核となる多数
の志士や政治家を生んだ。(年齢は松陰28歳時に教えていた1858年で記載)

 高杉晋作(20歳) ⇒討幕の戦いを勝利に導く。肺結核で死亡(28歳)
 久坂玄瑞(19歳) ⇒尊王攘夷運動をして禁門の変に南下して自刃(24歳)
 伊藤博文(18歳) ⇒兵庫県知事、初代内閣総理大臣
 山縣有朋(21歳) ⇒軍政改革、2度の内閣総理大臣
 品川弥二郎(16歳)⇒討幕運動、ドイツ公使、内務大臣、獨協大学の創設
 前原一誠(25歳) ⇒討幕運動、萩の乱で斬首される
 吉田稔麿(18歳) ⇒松陰門下の3秀の一人。池田屋事件で自刃(24歳)
 山田顕義(15歳) ⇒司法大臣、日本大学・国学院大学の創設

 (塾生ではないが門人として交流)
 木戸孝允(24歳)(桂小五郎) 
                                 ⇒廃藩置県、四民平等、憲法制定、三権分立、文部大臣
 井上 馨(23歳) ⇒26歳で英国に密航留学、外務大臣・内務・大蔵大臣
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松下村塾の内部
八畳と十畳半で
数十名が学んだ
(松陰は寝泊り)





<吉田松陰とは、その人物像>

 1830年(天保1年)に山鹿流兵学を家学とする下級武士の杉家に次男として
生れ、のち吉田家の養子となった。
 12歳の頃から儒学を学び、15歳頃には藩主の毛利敬親(たねちか)に孫子
や兵学の講義をできる能力を備えていたらしい。同時に十代で迫りくる外国の
圧力に対して国防を考えており、20歳になると藩命で海岸防備の実情調査に
参加している。

 22歳で手続きをしないまま脱藩状態で東北を旅し、24歳で諸国を回り、
ペリーが米国艦隊と共に下田に来た際は、アメリカに渡ろうとして失敗した。
そのために江戸伝馬町の獄に入れられたが、萩の野山獄に送られても、
そこで孟子などの講義を続けており、杉家での幽閉期間もやめることはなく、
1857年(安政4年)から58年にかけての松下村塾が最盛期だった。

 やがて松陰の尊王攘夷運動が危険視されて、1858年の暮に再び野山獄に
入れられ、5月には江戸送りとなった。
老中・間部要の殺害を企てた容疑で10月27日に処刑された。(数え年30歳)

 もともと萩の藩主毛利家は関ヶ原の戦いに敗れて以来、8ケ国を奪われ、
減封されて萩に追いやられたのだが、学問に造詣が深く、優れた人材の教育
に熱心だったそうだ。実家の杉家も松陰が幼少の頃から勉強をさせており、
松陰は「萩(松本村)を有能な人材の都にして、長州を変え、日本を変えよう」
と考えていたらしい。その意味では
 鋭敏な時代認識ができた思想家であり、革命家であり教育家であった。
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<時代認識とエリート教育>

 幕末という今とは相当背景が違うのに、松陰の時代認識は現在も通用する
点が面白い。
⇒「今の幕府も諸大名も国家の独立を維持する力がない。だから、民間から
  立ち上がる人を望む以外は、頼りとするものがないのだ」
 
 つまり、松陰は徳川幕府や長州藩の「組織」に絶望しており、その組織に
属する役人にも不信をいだいていた。
官途についている人間(公務員)たちはOUT. 「在野の遺賢」※に期待しよう!   
 「在野の遺賢」とは、野にあってそれぞれの主体性をもった志ある存在をさし、
 「公衆」と表現するエリートであり、インテリのことで、一般的な大衆ではない。
 
※松陰が言う「公衆」は情報の分析力、問題点に対する考察力、自分なりの
  解決策を設定できる能力の持ち主。付和雷同派の「大衆」とは区別している。

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松陰の「尊王攘夷」とは・・・
 
 松陰は尊王攘夷を唱えていたが、それは鎖国を意味するものではなく、
開国して西洋の優れた技術を取り込んで、日本に力を付けて西洋に打ち勝とう
と考えていた。

 結果、幕府が倒れて天皇親政で開国し、文明開化と富国強兵、殖産興業が
進んだことは、松陰が考えた未来路線そのものだったといえそうだ。